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今こそよみがえれ、「バサラの精神」

今日のおすすめの一冊は、エリック・バーカー氏の『残酷すぎる成功法則』(飛鳥新社)です。その中から「チャーチルの狂愚」という題でブログを書きました。

平時に活躍する人と、異常時に力を発揮する人がいます。あまり変化のない平和な時に活躍できる人と、動乱や混乱の非常時になったときに活躍できる人です。現在は、ある面でいうとここ何百年の間でも、まれにみる大変化の時代です。当然、平時とはタイプの人が活躍する時代になっているのは確かです。それが、ここ30年間の時価総額ランキングの日本の低迷に表れています。

平成元年のとき、日本は上位50社中32社がランクインしていました。しかも、ダントツのトップがNTTでした。それが、平成31年にはなんとトヨタ1社になってしまったのは有名な事実です。現在、トップ10社には、Apple、Microsoft、Amazon、Google、Facebookがランクインし、上位10社にはアメリカ企業が7社、中国企業が2社入っています。

あまり変化のない時代は、学校での優等生的な人が活躍できます。同様に、積み上げてきた過去の知識や経験の量が多いタイプも活躍できます。しかし、時代が風雲急を告げ、大変化が起きているときには、平時とは違った能力が必要とされます。それは、平時とは真逆な特徴を持った人。まわりから見ると、「狂気」があったり、「頭がイカれている」と思われるような人です。

この30年間は、ITの黎明期でした。このITは何百年に一度の発明で、社会にの様々な分野で大きな変革をもたらしてきました。いわば動乱の戦国時代に入ったのです。そうであるにもかかわらず、日本では相変わらず、平時のリーダーが会社のカジとりをしていました。競争相手が、何をしでかすかわからない、狂気のリーダーに変わっているのに、です。日本人は平和な時代にながく浸かり、その安閑さに慣れてしまったのです。

「バサラ」という言葉を思い出しました。会田雄次氏のこんな文章です。

バサラとは金剛童子のもつ武器“バージラ”よりきたもの。 実力と合理性を欠く旧来の権威の一切を否定、伝統による拘束を拝し、思いのままに行動し、財のあるものは財、能力者はその能力のすべてを散じ尽くして生きようという精神である。 南北朝の佐々木道誉、高師を代表者とする、このいわば「モノ狂ヒ」の精神は、時代とともに武将、武士と拡大し、民百姓まで及ぶに至った。
「何せうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ」(閑吟集)。 信長はその代表的継承者であり、秀吉らはその強い影響を受けつつ、戦い成長してきたのである。 このバサラ精神展開の基盤には、南北朝から戦国へかけての農業生産の躍進、日本最初の高度成長がある。 下剋上はそこから生まれた。 戦国乱世はそいう活気に満ちた乱世だったのだ。
戦後日本は高度成長を果たしながら、国民精神はこのような闊達さをもたなかった。 富の蓄積は小ずるさしか生まなかった。 社会の雰囲気がチマチマしているところでは、チマチマしたリーダーしか生まない。 チマチマした芸術家、学者、つまりはチマチマした文化しか生まないのである。
これを改めるには、まずは旧来のチマチマした旧指導者たちに後ろに下がってもらうことだ。 大衆のつつましい要求、実はいやしいたかり根性だけをいい立てる世論のリーダーたちにも退いてもらう必要もあろう。 次には嫉妬心と模倣、隣り百姓根性だけで生きてきた日本人を、何とか創造的であるかどうかで競争させることだろう。 日本人大衆は、優れたものを評価する能力はあるのであり、それを抑え、嫉妬心で導こうとしているのが古いリーダーたちなのである。
かつて司馬遼太郎氏が、日本人の一番悪いところは「日本人だから、これくらいでいいだろう」とすぐ考えることだ、といっていたが、建物を造るにせよ何にせよ、私たちが最初に脱しなければならぬのは、このいじけた精神であろう。 「バサラよ、もう一度」と私が願うのはそのためだ。 人間、分際をわきまえぬ所業もそうだが、その逆の、分を知りすぎるというのもまた、本当に「困ったこと」だからでもある。 (よみがえれ、バサラの精神―今、何が、日本人には必要なのか? /PHP文庫)

まさに、今、戦国乱世の時代です。日本は今、世界で負けに負けていますが、我々日本には、バサラの時代があったのだということを忘れてはなりません。バサラこそ、パラノイアであり、サイコパシーであり、狂気であり、狂愚です。今こそ「バサラよ、もう一度」だと思うのです。

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