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遊戯三昧とお金

今日のおすすめの一冊は、無能唱元氏の『小さなサトリ』(河出書房新社)です。この中から『「ツキ」は会話から生じる』という題でブログを書きました。

無能唱元氏は本書の中で「遊戯三昧(ゆげざんまい)」に生きよう、という一文があり、とても興味深かったので、シェアしたいと思います。

「普通に暮らしていることって、すっごく幸せなんだ!」ある日、19歳になったばかりの少女がそう言うのを聞いて、ああ、この「気づき」こそ、「サトリ」というものなんだなあ、と私は一つの感動とともに思い入りました。この少女の「サトリ」は、座禅修行30念を積んだ禅僧のそれと比べても、いささかも遜色のあるものではありません。
「無味、無為、無事」の中に、生の喜びを見いだすことは、きわめて稀(ま)れであっても、凡人にとってのこの喜びは、しばらくほうっておくと、じきに色あせ、退屈によって、かき消されてしまうのです。これは凡人ならずとも、賢人であっても同じことです。禅僧には書画をよくする人物がよくいますが、これも悟りすましているばかりでは退屈で、そのひまつぶしを目的として、一つの芸の達者になった人なのではないでしょうか。
陽だまりの中で、数匹の子猫がじゃれあって遊んでいます。子猫はとても遊び好きで、ときには、人間にさえ、一緒に遊んでくれとせがむことがあります。これは、エネルギーが有り余っているからで、それを遊びで発散しなけはいられないからなのです。
ところが、同じ陽だまりの中でも、親猫はうとうとと眠っており、めったに目を開こうとはしません。これは「若さ」というエネルギーをもうなくしているからなのです。これから考えられることは、「若さ」というエネルギーと、「遊ぶ」という意欲は相関関係にあるということです。猫と同様に、われわれ人間も、人生に「遊び」とその楽しみを求めつつあるかぎり、「若さ」をいつまでも失わないで済むのではないでしょうか。
禅家は、「人生は遊戯三昧をもって生きよ」と説きます。これは、「人生そのものを、ゲームとして、それを遊び楽しめ」と言っているのです。しかし、この遊びとは、どうもパチンコや競馬、ナイトクラブ、カラオケなどの、いわゆる、娯楽施設における遊びとは、ややそのおもむきを異にしているようです。
ではどの点を異にしているかと、おおまかな分け方ですが、娯楽型の遊びはおおむね消費的であり、遊戯三昧の方は多分に創作的、あるいは生産的であるのです。たとえば、音楽の鑑賞は消費的であり、作曲および演奏は生産的であるように…。
後者で特に大切なことは、そこには「自己主張」があり、「自己表現」がある、ということです。人間は生活の上で、自己表現がなされるとき、自己充足の満足を得ることができます。そして、この満足を得ることによって、生きる喜びを、心の底から覚えるのです。
しかし、このように遊戯三昧に生きるには、人間にはさまざまな成約があります。その最も一般的な制約とは、経済的な問題です。人間には好きなように自由に生きるには、自由に使える十分な資金を必要とします。
チャップリンは、「人間にとって必要なのは、希望と勇気と少しばかりのお金である」と言っております。しかし、あらゆる制約から解放されて、遊戯三昧に生きるには、「少しばかりのお金」では、どうも足りないようです。

お金に対して、多くの日本人は「お金は汚いもの」という認識を持っているように思えます。お金儲けに対して、「欲深い」とか「金儲けは悪いこと」と思ってしまうからです。

マザーテレサのこんな話があります。

マザー・テレサは、皆さんがよくご存知のとおり、コルカタ(カルカッタ)の貧民街で、誰からも手を差しのべてもらえない人たちを受け入れ、献身的な奉仕を続けてきた素晴らしい女性です。そのマザー・テレサが、いつもお金のことを考えていたというのです。意外に思う人もいるかもしれません。ですが、多くの人を救うためには、確かに多くのお金が必要です。そのため、彼女はどうすればたくさんのお金を教会に集められるだろうか、と考えていたのだそうです。(ほとけ様に教わった 毎日をハッピーにする90の方法/ディスカヴァー)より

問題はお金儲けではなくて、お金の使い方です。お金を自分のためだけに使ったとしたら、人は離れていきます。「ケチ」だとか「守銭奴」と言われます。しかしながら、人の為に使ったとしたら、逆に多くの人の賞賛を得ることになります。渋沢栄一はそれを「お金はよく集めて、よく散じる」と言っています。

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