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押しつけの善は悪に変わる

今日のおすすめの一冊は、青山俊董(しゅんどう)氏の『さずかりの人生』(自由国民社)です。その中から「相手に恥をかかせない、という気持ち」という題でブログを書きました。

本書の中に「押しつけの善は悪に変わる」という心に響く文章がありました。

私の心の奥深くにやきつけられた忘れられない風景がある。混雑した電車に 乗っていた。 電車が一つの駅に止まり、老婦人が乗ってきた。私の横に座ってい た青年がサッと立ちあがり「どうぞ」と席を譲った。

遠慮する老婦人に青年は 「降りますから」といって電車を降りた。老婦人はホッとした様子で腰をかけた。しばらくしてふと隣の車両を見ると先ほどの青年が人混みにまじって立っているではないか。私はハッとし、同時に青年の心づかいの深さに感動した。 

席を譲っ てくれた人が、自分の前でつり手にぶらさがりながらゆれていたら、何となく心苦しいではないか。そういう思いをさせないために「降りますから」とさり気なく云って電車を降り、すばやく隣の車両に乗りかえたのである。

インドの詩聖ともいうべきタゴールの詩に “私があなたを愛させていただくことが、あなたの心のお荷物になることをおそれる” という意味の詩のあったことを記憶している。 

とかくわれわれは “私がこんなに愛しているのに、あなたは私を愛してくれない” と、愛することに条件をつけたり、愛してくれることを求めたりしがちである。タゴールは “愛することは私の勝手。それが相手の心のお荷物になることをおそれる” という。何という深い、何という無条件の愛であろう。 

仏教(瑜伽論・ゆがろん)では八僑(はちきょう)といって八つの僑(おご)りを説いているが、その中の善行僑(ぜんぎょうきょう/善いことをしたという僑り)のところで太田久紀先生は、善いことをするにあたっての二つの留意点をあげておられる。

一つは善の押しつけ、善意のおせっかいによって相手を傷つけないこと、二つ目は善の行為の心の底に「私が」という利己の心がひそんでいないか、ということ。

ああ何ときめこまかな心の観察であろうか。福祉事業とかボランティアも、うっかりすると自己満足であったり、相手への押しつけの善であったりすると「悪に変わる」と説かれていることを忘れてはならない。

たとえば、ボランティアの会などで、「私はこの会に何十年と尽くしてきた」という人がいる。だから「私はもっと会の中で優遇されるべきだ」、と。会に何十年と尽くしてきた行為は尊い。しかし、それが押しつけの善であったら、どうだろう。善行も悪に変わるのだ。

本当は、どんな善い行為も本人が勝手にやっていること。まわりに脅されてやらされている訳ではないのだ。そして、その気持の中に「私じゃなければできない」とか「私がいたから会はもっているのだ」という利己の心や僑りが見え隠れしたとき、まわりの人は嫌になる。

「押しつけの善は悪に変わる」という言葉を胸に刻みたい。

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