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死ぬまで必要とされる人生

今日のおすすめの一冊は、岡本彰夫氏の『日本人よ、かくあれ』(ウェッジ)です。その中から「風格とは、捨てても捨てても遺るもの」という題でブログを書きました。

本書の中に「死ぬまで必要とされる人生」という心に響く文章がありました。

今私の最大の課題は、「死ぬまで必要とされる人生」は、どうして歩めばよいのだろうかという一事である。 いくら会社で昇り詰めても、名刺を返上してしまえば、もうおしまいである。つまり肩書 を返上してしまえば “只の人”になってしまうのだ。 

まずそうなると顕著に変化するのが、年賀状と中元・歳暮の数である。 坊主・神主でも、その揮毫(きごう)は最高職に就いている間は光彩を放つが、職を去ったり死んでしまえば価値が暴落する人が多い。 

とにかく生きている時は作品の価が高くても、此の世を去った途端に価値が下がるという事は、その人の職名に対しての価値であって、本人そのものの価値では無いということになってしまう。 

美術工芸の世界でも同じことだ。在世中の値と、死後の値が変貌するということは、どういうことであろうか。 また反対に生前と変わらぬ人、それ以上に価値が上がる人もいるが、願わくば没後上がってもらうに越したことはない。 

奈良にかつて不染鉄(ふせんてつ)という画家がおられた。東京の出身で、日本画を学び写生に出かけた伊豆大島で漁師となり、再び画業を志して京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学) へ入った。

才能ある人で、その作品は高く評価されたが、画壇に嫌気がさして、奈良の学校で美術の先生をされていた。ついには乞われて校長まで勤められたが、晩年は不遇であった。 いつも画料は八万円。八という字が好きだったらしい。 

不染は昭和五十一年に八十四歳で逝去されたが、若い人達は彼を慕っていたという。 没後二十年にして、はじめて奈良県立美術館で特別展が開催された。会場は常に入館者で いっぱいで、図録は会期中に売り切れてしまった。

「幻の画家」と評され、その作品もよく 知られていなかったが、近来はその価値が認められ、作品の入手もままならぬ状態である。 死んだ途端に価値が失せる人生よりも、死んでから活かされていく人でありたいと思う。 

しかしそうなるためには、晩年が大切だ。 肩書を返上してから、只一人の人間としての真価を発揮出来なければ、死後の評価などありえない。 まずは死ぬまで皆さんに必要とされる人生を送ろうと、懸命に暮らしている毎日である。

小林正観さんは「人生を楽しむ」とは、「人に喜ばれること」をすることだという。人に喜ばれることが、人にとって一番楽しいことだからだ。人に喜ばれる人は、人から必要とされる人でもある。

人はあの世に行くとき、持っていた財産も、肩書も、そして自分の体も、全部捨てていかなければならない。ただ一つ、この世に残していけるものは、人に与えた「喜び」と「悲しみ」だけ。喜びが多ければ、人の心にはいつまでも良き思い出が残る。


死ぬまで必要とされる人生をおくりたい。

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