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無用の用

本日のおすすめの一冊は、『不要不急』(新潮新書)で、10人の僧侶が書かれた本です。その中から、横田南嶺(なんれい)氏の文書「不要不急」と題してブログを書きました。

横田南嶺は「無用の用」についてこう書いてあります。

『碧巌物語』という山田無文老師の本の中にこんな一節があります。

『仏法は障子の引きて峰の松火打袋にうぐいすの声』と古人は歌った。障子の引き手は、綺麗に張られた障子の一コマにわざわざキズをつけるのであるが、このキズがないと大いに不自由である。峰の松は何百年来切って用材に使うことのない、いわば無用の長物であるが、この無用の長物のためにどれだけ往来の旅人が慰められ、道を教えられ、勇気づけられたことであろう。
火打袋は今日のマッチやライターのごとく軽便に行かぬので、はなはだ厄介千万な代物だが、愛煙家にはどうしても欠くべからざるもの、これを忘れた時の淋しさ不自由さは譬えようもないであろう。また鶯がどんな良い声で鳴いたとて、銭もうけにも腹のたしにもならんが、この何にもならぬ鶯の声が、如何ばかり人生を和らげ潤おしてくれることか。
考えてみれば仏法というものも、所詮障子の引き手のごとく峰の松のごとく、はた火打袋か鶯の声のごとく、無用の長物に過ぎん。しかしこの無用の用こそ人生にとって最も大切なものだというわけである」という解説でした。
私が高校生の頃、この歌に心ひかれたのは、単に世の役に立てばよいという考えに反感を持っていたからでしょう。まわりの者が皆受験勉強に熱をあげている時に、誰にも見向きのされない坐禅に打ちこんでいたのもそのためです。
老荘思想では、「無用の用」ということが説かれています。一見無用に思われるものが却って役に立つということなのです。 粘土をこねて器を作りますが、中央のくぼんでいる空間があってこそ、器としての用をなしているのです。戸や窓によって部屋が作られますが、中の空間があってこそ、部屋の用をなしているのです。
このように、何かがあって利益がもたらされるのは、何もないところに効用があるからなのだというのです。 たしかにどんな立派な茶碗でも中が詰まっていれば何にもなりません。一番大事なのは中のカラッポの部分であります。部屋でも建具や柱が大切なのは言うまでもありませんが、中の空間が大事なのであって、有が役に立つのは、無があるからだというのであります。

コロナ禍の緊急事態宣言では、多くの業界が「不要不急」と見なされました。当面、なくても困らない「無用の長物」とされたということでもあります。しかし、考えてみれば、我々の生活は、ほとんどが「なくても困らない」で成り立っています。

スーパーや100円ショップに、どんなに色々な商品がおいてあろうと、我々が買ってくるのはその中のごくわずかなものです。ほとんどが我々にとって「不要不急」のものです。しかし、その不要不急なものがあるからこそ、ブラブラ歩いて、選ぶ楽しみがあり、見る楽しみがあり、発見する楽しみがあるのです。

人生もかくの如しです。音楽にしても、絵画にしても、書籍にしても、スポーツにしても、ほぼすべてのものが不要不急です。しかし、それがあることにより、どんなにか、人生の彩りが豊かになるか、深くなるか、幸せになるか、ということです。

今一度、「不要不急」「無用の用」の大切さに気づける人でありたいと思います。

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