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「いそぐなよ、また急ぐなよ」とつぶやく

今日のおすすめの一冊は、火坂雅志(ひさかまさし)氏の『武士の一言』(朝日新聞出版)です。その中から「千利休の美意識」という題でブログを書きました。

本書の中に『「いそぐなよ、また急ぐなよ」とつぶやく』という心に響く文章がありました。

慶長(けいちょう)五年九月十五日の早朝に始まった合戦は、 当初互角の展開をみせたが、午後になって徳川家康のひきいる東軍が、石田三成らの西軍を圧倒した。 全軍が総崩れとなるなか、西軍の島津義弘は、敵のまっただなかに孤立した。 開戦時に千人いた島津勢は、わずか三百人に減っている。 

このまま、(おのれも敗走すべきかどうか…) 義弘は迷ったにちがいない。 だが、いったん戦意を失い、敗走をはじめた軍勢ほど弱いものはない。 勝利の勢いに乗る敵勢の追撃を受け、全滅する可能性が高かった。 

(むしろ、ここは死中に活を求めるべきではないか) 硝煙と血の臭いに満ちた戦場で、義弘は意を決した。 そのとき、彼がつぶやいたとされるのが、 『いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは』 の言葉である。 

西軍は大敗したが、いまだ島津家の運命は定まったわけではない。 むやみに死に急がず、生きてさえいれば復活の目はある。 (焦るな、焦ってはなるまいぞ…) ともすれば絶望的な心境におちいりそうになる自分自身を、義弘は鼓舞した。 そして、義弘が選んだのが、敵中を突破する策である。 

敵味方が入り混じって混乱する戦場の中央へあえて切り込み、一丸となって走り抜ける。 あれこれと小賢しい策を弄(ろう)するより、もっともシンプルな作戦をとったほうが、 敵の意表をつき、生き残りの確率も高いと義弘は判断したのである。

 「これより、徳川の本陣めがけて突入する。 家康の首を獲るのじゃ。 みな、わしに命をあずけてくれッ!」 本来の目的である“退却”はあえて部下に伏せた。 そして、島津勢は家康の本陣の前を素通りし、そのまま走り続けた。 

激烈な戦いのすえ、島津義弘は関が原の戦場を脱出した。 島津軍の犠牲は多く、義弘とともに生還した兵はわずか五十人にすぎなかったという。 この敵中突破は、のちに、「島津の退(の)き口(ぐち)」と呼ばれた。 

◆多くの人は、経営や人生において、絶体絶命の危機や、 度重なる試練が続くと、時として投げ出したくなることがある。 もう勝負はあった、これ以上は無理、と思い定めてしまうからだ。 

本当は、その「無理」の先に希望があるのだが、渦中のときはそこまで考えが及ばない。 そんなとき、この島津公のこの言葉を思い出してみることだ。 

『いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは』 

どんなに退路を断たれようと、どこかに生きる道はある。 負けが決まったわけではない。 今は評価されていなくても、時が過ぎて、認められる人など、星の数ほどいる。 格好悪かろうが、何を言われようが、とにかく生き延びることだ。 生きていさえすれば、必ずやチャンスはめぐってくる。 早まってはいけない。 

「いそぐなよ、また急ぐなよ」と呪文(じゅもん)のごとく唱え、人生を投げ出さずに生き抜いてみたい。

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