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一期は夢よ たゞ狂へ

今日のおすすめの一冊は、ひろさちや氏の『「狂い」のすすめ』(集英社新書)です。その中から『人生を「遊ぶ」とは』という題でブログを書きました。

本書の中に「一期は夢よ たゞ狂へ」という心に響く文章がありました。

閑吟集(かんぎんしゅう)』というのは、室町後期に編纂された歌謡集です。編者は未詳。庶民の生活感情を伝えた当時の歌が収録されています。 その『閑吟集』からわたしの大好きな歌を引用紹介しようとして、再読してみたら、こんな歌が見つかりました。

お目当てのものはあとに回して、先にそちらを紹介します。

《何ともなやなう 人生七十古来稀なり》

 "何ともなやなう”は、どうにも仕方がないなぁ...といった意味です。“人生七十古来稀なり”は、唐の詩人、杜甫の言葉です。そしてこの杜甫の言葉から、七十歳を〝古稀” ("古希”とも表記します)と呼ぶようになったのは、先刻ご存じのところでしょう。 

じつはわたしは、昨年七十歳になりました。それで、『閑吟集』のこの歌に〈どきり〉 とした次第です。まったくしょうがないなあ......といった心境です。 

また、こんな歌もあります。 

《世間は ちろりに過る ちろりゝ》

 "ちろり”はまたたくまの意。人生はまたたくまに過ぎてしまいます。七十年なんて、あっというまです。 でも、だからといって、時間を大切にしなさい、充実した人生をおくりなさい、と、そんなことは言いたくありません。

それとは正反対のことを言いたくて、『閑吟集』から引用しようとしたのです。 そうです、お目当ての歌は、こういうものです。 

《何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ》 

何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら遊び狂え・・・といった意味でしょう。〝くすむ"とはまじめくさることです。 しかしね、誤解しないでくださいよ。「ただ狂え」「ひたすら遊び狂え」と歌われていますが、だからといって室町時代の彼らが遊び狂っていたわけではありません。

悲しいことに、現実には彼らは牛馬のごとく働かざるを得ないのです。室町時代にかぎらず、いつの時代でも、庶民はあくせく働くよりほかありません。その現実の苦悩の中で、だからこそ庶民は、《一期は夢よ たゞ狂へ》と歌ったのです。

それはある意味で、彼らの願望でありました。いや、願望というよりも、むしろ現実と闘うための思想的根拠であり、武器であったと思います。


◆《一期は夢よ たゞ狂へ》の前文にこんな言葉がある。

 《くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して 何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ》

「まじめくさった人なんて見られたもんじゃない。 まるで夢のようにはかないこの世を、さも悟(さと)ったような顔をしたところでどうなるものか。 我々の一生は夢のようなもの。 ただ面白おかしく狂えばよい」

また、城山三郎氏の小説にこんな一節がある。

「一期(いちご)の盛衰(せいすい)、一杯の酒。」一代の英雄の興亡盛衰の重さも、一杯の酒のうまさに叶わぬ、というのね。ついでにいえば、わが人生、酔生夢死という終わり方をしたいわ』(本当に生きた日)より

「パラダイムシフト」という言葉がある。その時代に当然と考えられていた価値観や、物の見方や考え方が劇的に変わることをいう。まさに、今がそれだ。生成AIにより、古い旧態依然とした価値観が変わるときが来ている。

世の中が引っくり返るような大変化のときとは、狂気の時代。狂気に対しては狂気で向かうしかない。

今こそ、必要なのが《一期は夢よ たゞ狂へ》。

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