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いくつになっても、さらに学び続ける

今日のおすすめの一冊は、藤尾秀昭氏の『小さな幸福論』(致知出版社)です。その中から「南無地獄大菩薩」という題でブログを書きました。

本書の中に「いくつになっても、さらに学び続ける」という心に響く文章がありました。

五木寛之氏は人生の四季を、青春は二十五歳まで、朱夏は五十歳、白秋は七十五歳、玄冬はそれ以降と区切っている。それに従えば、現代では朱夏、白秋までは家庭生活を含め現役として社会活動を果たす時期、と言っていいだろう。

この時期に大事なことは、因果の法則を味(くら)まさないことだろう。善きことをすれば善きことが、悪しきことをすれば悪しきことが返ってくる。宇宙の法則である。だからこそ私たちは勤勉・誠実・丹精を旨とし、謙虚・素直に努め、感謝と感動、知恩・報恩に生きる人生を全うしたい。

そこに五木氏の言うように、六十代は収穫期、七十代は黄金期となる人生が開けると思うのである。 

七十五歳以降は玄冬である。「玄」には「黒い」の他に、「奥深い、玄妙」の意もある。この玄冬の時代をどう生きるか。 安岡正篤師の言葉に耳を傾けたい。 

「老”という文字には三つの意味がある。一つは年をとる。二つは練(ね)れる。三つは〝考”と通用して、思索が深まり、完成するという意味だ。 老いるとは単に馬齢を加えることではない。その間に経験を積み、思想を深め、自己・人生を完成させてゆく努力の過程でなければならない」 

さらに言う。 

「古来医学の専門家は、人間いくら年をとっても、否(いな)年をとるほど、学問や芸術や信仰に情熱を抱き続けることが不老の秘訣であることを切論している。 学芸、信仰、事業などに感興(かんきょう)を失わず、情熱を抱き続ける老人こそ、不老の特権階級である。

徒(いたずら)に不老長生の薬を求めたり、苦難を恐れて安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)る人間は養生の道を錯誤(さくご)しているものである」 

そして最後を三国志の英雄曹操(そうそう)の言で締めくくる。 

老驥櫪(ろうきれき)に伏す 志(こころざし)千里に在り 烈士暮年(れっしぼねん) 壮心巳(そうしんや)まず」 

一日千里を走る駿馬(しゅんめ)が老いて厩(うまや)に伏しているのは、なお千里を走らんがためであり、雄々(おお)しい男子は晩年になろうとも志を捨てない、の意である。人間、この士気(しき)がなければならない、と安岡師は結語(けつご)している。

人生の終焉がいつかは誰にも分からないが、その日がいつであろうと、士気をもって人生を歩みたいものである。

◆詠み人知らずの 「人間の一生」という一文がある。

「五十の声をきいた時に、たいていのものが息を抜くが、それがいけない。 『これからが仕上げだ』と、新しい気持ちでまた十年頑張る。 すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。

だが、月並みな人間はこの辺で楽隠居したくなるが、それから十年頑張る。 すると七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。 しかし、それからまた、十年頑張る。 するとこのコースが一生で一番面白い」(人生の勝負は後半にあり〜中高年起業のすすめ〜/ぱるす出版)より

末路晩年、君子よろしく精神百倍すべし」菜根譚にある言葉だ。晩年に差しかかってからは、君子たるものは、精神を百倍盛んにして、生きなければならない。

森信三先生は、こう語っている。「人生の晩年に近づいたならば、青壮年の時代以上に、はるかに、心を引き締めて、人生の晩年の修養に努めねばならない」そして、「一日読まざれば一日衰える」と。

人は一日学ばなければ、一日衰え、老いる。学びの基本は読書。晩年になればなるほど、自分の気持ちを鼓舞し、怠け心を排し、若い頃よりさらに修養する。その気持ちがなければ、若者たちのお荷物になるだけだ。

人生の後半生…
晩年になればなるほど、学び続ける人でありたい。

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