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炎上しないためにも推敲は必要

今日のおすすめの一冊は、成毛眞氏の『バズる書き方』(SB新書531)です。その中から「書く力を身につける」という題でブログを書きました。

本書の中に「なぜ推敲が必要か」という文章がありました。

読者が増えるのは喜ばしいことだ。しかし、その半面、1つ問題が生じることもある。それは、世の中にはいろいろな受け取り方をする人がいるということだ。自分の真意とは違うように受け取られ、誹謗中傷じみたコメント、いわゆる「クソリプ」を送られる可能性もゼロではない。
そんなのは読解力に乏しいほうが悪いんだと思うかもしれないが、ひとたびこちらがまったく意図していないゆがんだ受け取り方をされると厄介だ。まず、「どうしてこんな受け取り方をするんだろう」と自分が嫌な気分になる。次に、誤解を解くために相手にコメントを返す時間を割かなくてはいけなくなる。
それも読解力に乏しい輩のために、わざわざ、である。考えただけでも気が滅入るだろう。そしてさらに厄介なことに、いくら丁寧に言葉を尽くしても誤解を解こうとしても、そのそも人の意図を取り違えてコメントまで書いてくる人は、そう簡単に納得してくれない。
そういう人は、人の言葉尻を捉えて揶揄することで悦に入り「言ってやった!」となっている場合が多い。だから、なかなか「なるほどそういう意味だったんですね、失礼しました」とはならないのである。結果として自分だけが、「なんか変な人に絡まれた」と後味の悪い思いをすることになる。これでは徒労もいいところではないか。
自分の発信をきっかけとして、コメント欄などで有意義な議論が交わされるのは歓迎すべきことである。しかし単なる揚げ足取りを仕掛てくるような相手に費やす時間はない。それに自分が不用意な書き方をしたばかりに、読解力に乏しい人に絡まれるだけでなく、まともな読者から誤解されるということも起こりうる。
大多数の慎み深い読者は、あまりコメントなどしない。ただ、あなたのことを「この人はものがわかっていないな」「こんな考え方はありえない」と誤解し、そっとフォローを外すだけである。これは避けたい。
自分の発信がどう受け止められるか。その責任の9割は読者ではなく、自分にあると考えるべきである。不用意な書き方はしない。誤解を生む芽はあらかじめ摘んでおく。だから推敲が大事なのだ。具体的にいえば、いろいろな受け取り方がありうる書き方にならないように気をつける。突っ込まれるスキをつくらない。これらは、いくら心がけても心がけすぎることはない。

絡まれそうな表現というのは、確かにあります。だからこそ、自分で推敲するのはもちろんですが、違う読み手に読んでもらってそこでも推敲する、という必要も出てきます。自分ではいいと思った文章でも、「女性(男性)が読んだときの受け取り方は」とか「年齢が違った人(年配者か若者、中年)が読んだときの反応は」とか、「体の不自由な方(病気等も)では」等、いわゆるダイバーシティ(多様性)を認めるということですね。

とくに、昨今は政治家などの発言が炎上することが多いですが、ほとんどがこのダイバーシティに関する発言だと思います。これは、文章を書く上でも本当に気をつけなければいけないことだと思うのです。

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