『人格』2019.11.04



生まれてこの方、僕は一人の人間として生きたことがない。必ず彼女と一緒にいる。僕の名前は"僕"だ。呼ばれない名前は必要ない。彼女を慰めるために生きているわけではないはずだった。いつの間にかここにいたから生きている、僕も彼女も同じだ。
誰もいなくなる瞬間、例えば眠る直前になると、僕は彼女と話をする。正しいとか正しくないとか、わかるとかわからないとか、相槌をうつ。僕と彼女は二人ではない。それは正しさを求める作業でも、共感を求める作業でもない。一人の人間が単純に反芻してひとつの意見を取り出す、だけの行為にしか見えないはずだ。ありったけ長い時間をかけてやる。
彼女は意見を言わない。僕は意見を言う。けれど僕の意見ではない。僕の判断だけれど。
たまに、彼女の記憶に蓋をしてやろうかと、思うことがある。そうすれば彼女と別人になり、僕の意見は僕の意見に、それから煩わしいのを避けて、もう彼女とは別れて、消えてしまうことだって出来そうだと思う。中途半端な僕は、いつまで経っても一人の人間ですらなく、やった記憶のない行為に延々と判断を下し続けている。僕は何なのだろう、と思うのは彼女で、僕ではない。
僕はあらゆることに、大して興味がない。彼女は何でも興味があるらしい、何でも僕に聞いてくる。わからないし、したいかしたくないか、と聞かれたら、何もしたくないし出来ないと答えるしかない。
僕には無いものが多い。彼女はあるものが多過ぎる。僕は人を好きにも嫌いにもなれない、自分がどう思われているかなんてどうでもいい。彼女は違う、怖い、怖いと言う。僕はじゃあ怖がる彼女のために、何をしたらいいのかと、悩むほど興味を持てない。怖いなら人を人だと思わなければいい。
僕がかわりに生きたら、彼女は彼女でなくなってしまう。きっと、沢山傷ついてしまう。僕は他人の考えがわからないから。
彼女は彼女なりに、自衛しながら生きていくのが、きっと一番傷つかないのだと思う。傷ついていくうちに、昔よりは少しだけ、痛みにもなれていくはずだ。そのとき僕は、安心して、消えてなくなることが出来る。僕は彼女ではない、名前のいらない、一人ではない…
彼女の意識が閉じているときだけ、僕は僕になる。彼女とだけ会う、生まれてきた理由のわからない僕。彼女のためだけに生きているわけではない、けれど僕に名前はなく。僕は、ただ彼女の決められない事実に、一つ一つ判断を下していく。


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