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私の中の「わたし」と「ワタシ」


「死んでしまうよ……」

「いつか必ず死ぬよ。
それに、死んだからって何?魂は生き続ける。
怖いの?」

「大丈夫、もう怖くない」

車の運転をするようになって、ときどき脳内で交わされる会話。

別に死ぬかと思うほどスピードを出している訳ではないが、いままで生活の中になかった“車の運転”という行為から連想される“事故”というワードについて、自動的に脳内で会話が交わされる。
今の私には、「怖い」という感覚がない。運転中はまるで「龍に乗っているような」「背中から羽が生えたような」感覚すらある。
それなのに、決まり文句のように「運転が怖い」と言ってしまうのは、いままで本当のわたしの感覚を無視し、ごまかし続け、うわべだけの平静を保ち、幸せを装っていたワタシの残骸。ビビリで怖がりの仮面は、その頃の生き方には都合がよかった。なぜなら、怖いと言っていれば何もしなくても許される(と思っていた)から。


夫とのパートナーシップは、もうとっくの昔に終わっていた。それでも別れを選択しなかったのは、世間でよくあるお決まりのあれ。
「自分の経済力に自信がない」
「まだ恵まれているほうだから」
「好きなことをやらせてもらえて感謝している」
何度か夫の裏切りを目の当たりにしても、事を荒立てることなく、なかったことにした。

「自由になりたい」と何年もそう言い続けた。でも現実を変えられなかった。
過去の様々な刷り込みから「弱い」と思わされ創られた虚像のワタシが手放さなかった現実は、色あせて力を持たず誰も幸せにしないのに、これ以上の幸せは望めないとしがみついていた。

そんな私があることをきっかけに、夫婦関係を解消する決断をした。

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