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ヴェルディの黄金期を知る男。YOUは何しに長野県へ?(前編)

三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪…サッカーファンなら誰もが知る往年のスターたちだ。彼らは選手として東京ヴェルディの黄金期を飾ったが、彼らと寝食をともにするスタッフもまた、陰ながら華々しい世界で過ごしてきた。その一人がいま、長野県のサッカーに変革を起こそうとしている。

福田裕一。大学サッカーの強豪・国士舘大を卒業後、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)にアカデミースタッフとして入社した。ジュニア、ジュニアユース、ベレーザ(女子チーム)の指導を歴任し、トップチームの広報や営業などフロント業務も務めた。2000年の退社後はサッカーの現場から離れていたが、2021年11月に中野エスペランサ(長野県中野市)のU-15コーチとして現場復帰。昨年をもって同クラブを離れ、現在は新たな道を模索している。

ヴェルディの黄金期を知る彼はなぜ、長野県で再びサッカーに携わることとなったのか。

無名の公立高校から、日本一の大学とクラブへ

東京都三鷹市出身。高校時代は武蔵野北高でプレーし、「都立高校でちょっとうまかったレベル」だった。しかし、1982年に全日本大学サッカー選手権(インカレ)で初優勝した国士舘大を目の当たりにし、同校への挑戦を決意。体育教師を目指していたこともあり、一般受験で体育学部に進学した。

とはいえ、当時の福田少年は名もなき平凡な選手。全国大会経験者や年代別日本代表が集う強豪校において、通用する見込みはなかった。

「サッカー部の練習はきついというよりも、みんながみんなうまかったので『やばいな』と思っていました。試合に出るのが難しくて、マネージャーとかトレーナーになる道もありましたが、ある日監督に『お前、家は三鷹だろ?よみうりランドは近いか?読売サッカークラブのスクールで指導して、サッカーを勉強してきなさい』と言われたんです」

当時の国士舘大は全寮制だった。福田氏は大学での勉強と部活動、寮生活を両立しつつ、週末は帰省も兼ねてよみうりランドへ。スクールコーチとして給料をもらいつつ、食堂で読売クラブの選手たちと触れ合う機会もあり、「いろいろなことを学んだ」という。

奇妙な縁で日本のトップクラブと携わることになった一方、国士舘大サッカー部では4年まで出場機会を得られなかった。それでも本来の目的であった教員免許を取得し、東京都の私立校への就職が内定。晴れて体育教師になるかと思いきや、ここでも意外な展開が待っていた。

「私が4年のときに、読売クラブのトップチームの監督をやっていた千葉進さん(国士舘大出身)が亡くなってしまったんです。このままだと国士舘大と読売クラブの縁もなくなってしまうので、当時の監督から『お前、読売クラブに入ってこい』と。『いや、もう先生になることが決まっているんですけど…』と言ったら、『先生なんていつでもできるだろ!』と返されました(笑)」

急展開に戸惑いながらも、「当時の読売クラブのサッカーが好きだった」こともあり、入社を決意。ジュニア、ジュニアユース、ベレーザの指導を歴任した。

プロ選手も数多く輩出した。男子は代表クラスの選手こそ現れなかったが、ジュニアユースの1976年組は財前宣之、菅原智、星川敬ら8名がトップチーム入り。女子(ベレーザ)も澤穂希、本田美登里、高倉麻子ら錚々たる顔ぶれだった。

中列左端が福田氏、左から4番目が澤穂希。前列右端が本田美登里、右から4番目が高倉麻子

1993年のJリーグ開幕後は、フロントスタッフとしてトップチームの広報と営業も務めた。広報時代はアウェイ遠征にも帯同し、三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪らと寝食を共にした。日本のトップ・オブ・トップに触れることでサッカー観が広がり、それと同時に「ホテルに入ったときから試合は始まっていた」と言うように、現場の緊張感を直に感じた。

いまでこそ引退した選手たちがクラブスタッフに就くのが当たり前になったが、当時はそれもなかった時代。福田氏のようにプロ経験なしでアカデミーコーチやフロント業務を務めるのは、滅多にないケースと言えるだろう。

華やかな世界とはいえ、1年契約の連続で「毎年ドキドキしていた」と振り返る。家庭の事情や、引退した元選手がスタッフを勤め始める中で、年を追うごとに転職を考えることも多くなった。そして2000年に保険会社からリクルートがあり、「大好きなことばかりやってお金をもらうのもいいけど、外の世界に触れてみるのも大事かな」と、約20年間のヴェルディでの生活に幕を閉じた。

長野県でサッカー熱再び。20年ぶり現場復帰

サッカー業界を離れて保険業界へ。愛知県や大阪府への転勤も経験し、順調にキャリアを積んできた。東名阪を渡り歩いてきたわけだが、地方との縁がなかったわけではない。長野県の高山村に昔からの友人がおり、「よく遊びに行っていた」という。

「東名阪で仕事をしてきたので、正直、もう都会はいいかなと思っていて(笑)。そんな中で高山村の自然にやられてしまって、友人の家に泊まりに行けば温泉三昧、お蕎麦三昧、お酒三昧。友人からは『もうこっちに住んじゃえばいいのに』と言われていました」

その言葉に感化され、当時勤めていた企業の長野支社への転勤を志願。「50代半ばを過ぎていたので認められないだろうな…」と思っていたそうだが、まさかの希望が通った。そうして長野県(長野市)での生活が始まったわけだが、高山村の友人以外の人脈はなく、クライアント探しも一苦労。それでも友人の紹介で人脈を広げ、そこでサッカーを応援している企業の社長などと知り合った。

サッカー関係者でヴェルディの黄金期を知らない人はほぼいない。自身の経歴を話せば、「ヴェルディにいたんですか!?」と当然のように話が広がる。そうしているうちに再びサッカー熱に火がつき、地元クラブであるAC長野パルセイロの試合を観戦に行った。

2021年10月3日、AC長野パルセイロvsカマタマーレ讃岐。コロナ禍で応援が制限される中だったが、長野Uスタジアムの雰囲気に魅了された。大阪府在住時に通っていた市立吹田サッカースタジアム(ガンバ大阪の本拠地)と比べても、「少しこじんまりしているけど大差はない」と話す。ちなみに、当時カマタマーレ讃岐を率いていた上野山信行監督とは面識もあったとのことだ。

ヴェルディを離れてからのサッカーとの接点は、シニアサッカーを嗜む程度だったが、「また何かしらの形で関わりたい」と完全に火がついた。オフラインでの人脈こそ限られていたが、以前から力を入れていたFacebookを活用して道を模索。中野エスペランサ(中野市の社会人サッカークラブ)の酒井雄高代表と接点があり、コンタクトをとると、ちょうどクラブがU-15チームのコーチを探しているタイミングだった。

そうして2021年11月から、中野エスペランサのU-15コーチを務めることとなった。2000年にヴェルディを離れたのち、約20年ぶりの現場復帰。たった一人の友人をきっかけにたどり着いた長野県で、ビッググラブで培った知見と経験を生かすときが来たのだ。

後編に続く)

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