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木下杢太郎という生き方

 1月31日は「愛妻の日」。
 今日、妻に花を贈りました。

 この話題で引っ張ってもいいのですが、お花の話をすると私は伊東市で出会った一人の偉人のことを想うのです。

 その方は木下杢太郎(もくたろう)先生。
 東京帝国大学医学大学(現在の東京大学医学部)を卒業し、皮膚科の専門医として明治時代に活躍しました。

 しかし今では医者としての杢太郎ではなく芸術家、詩人、特に画家として伝わっています。

 もともと杢太郎さんは芸術家としての道を歩もうとした方でした。
 18歳のころには、かの有名な与謝野鉄幹が率いる芸術雑誌の会員となり様々な詩を詠み、名を上げていきます。

 そして、同じ医者ということもあり、あの森鷗外とも懇意になります。

 若き日の杢太郎は、文学界の巨匠でもある鴎外から「こう」言われるのをずっと待っていました。

 ”杢太郎くん、君は医者じゃなく芸術家を目指したまえ。”

 しかし、その言葉を鷗外の口から聞くことはありませんでした

 あの鷗外から芸術家の道を進めと言われたらどれほど嬉しかったことでしょう。しかし現実は厳しく、杢太郎は失意の中、医学の道に入ります。

 皮膚科医療の権威として多忙な日々を送る中でも、杢太郎の中には芸術家の魂が残っており、留学先での芸術鑑賞や文献の保存活動を行います。

 そして迎えた晩年は、日本や世界にとって暗い日々でした。
 戦争といったものが杢太郎の周りを覆います。芸術といったものは隅に追いやられ、ひたすらお国のために自分を抑制する日々。

 そんな中、病魔に苦しみ灯火管制の中、身近に咲く花や植物の写生を行います。画用紙だなんて高価なものはありません。手元にあった便せんに繊細な花の絵を実に900枚近く描き続けたのです。

 そして杢太郎は敗戦後間もない昭和20年10月15日に亡くなります。

 杢太郎自ら「百花譜」と呼んだ、美しく写実的な植物の絵は死後に見つかって評価され、今や伊東市のシンボルともなっています。

 人間だれしも、「この分野で名を上げたい!」「この技術で有名になるんだ!」というような思いがあると思います。
 私だってそうです。
 経済学が好きですし、経済学の分野で名を上げて歴史に名を刻みたいと日々精進しています。

 しかし、得てして人間というのは、自分が望んでいない道を歩まなければいけないものだと思います。
 それが運命なのか、神様からの試練なのかは分かりません。理想とは全然違う現実を突きつけられて、「こんなことしたくなかったけどなぁ」とか「こんな自分になりたかったのかなぁ」と自問自答しながら日々を過ごすのだと思います。

 自分の望んだ世界に飛び込んだとしても、自分の作品が予期せぬ方向に評価されてしまうこともあるでしょう。

 私の好きな歌手、岡村孝子さんは「夢をあきらめないで」で有名ですが、あの曲はもともと失恋ソングから立ち直る歌でした。
 しかし今となっては専ら「応援ソング」という形で評価されてしまい、歌が岡村さんの意思を離れて一人歩きしてしまっていると、以前インタビューで答えていました。

 私が尊敬している経済学者、フリードリヒ=ハイエクも専門分野である経済学の方で名をあげようとしましたが、同時期の経済学者ケインズとの論争の中で執筆した『隷属への道』が評価されてしまい、経済学者としてではなく思想家としての評価の方が定着してしまいました。

 杢太郎先生も芸術家の道に行きたかったのに、鷗外から評価されず泣く泣く進んだ医学の道で大成し、芸術家として評価されたのは晩年でした。

 人生何が世間の評価を得るのか分かりません。
 自分では「これだ!」と思うような会心の作品を世に出しても評価されず「え?これが?」というものが評価されたりすることもあるでしょう。

 それでも諦めずに人生の最後まで自分がやりたいこと、伝えたいことのために努力し続ければいつかは誰かの心に届くのだと思います。
 そう信じていないと寂しいですよ、制作活動というのは。

 皆さんが、誰か大事な人に花束を贈るときは、一人の芸術家の生き方をほんの少しだけ思い出してみてはいかがでしょうか。

 世の中が落ち着いたら、今度は家族で伊東に行きます。

 もしこの記事をお読みいただいている方で奥様がいらっしゃれば是非とも花束を贈ってあげてください。
 こんな先の見えない時代のささやかなプレゼントです。

 それでは。

妻 花

令和4年1月31日
坂竹央

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