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年賀状のノスタルジー

東北の田舎育ち。
元公務員。
子どもは3人、夫は他界。
今はお母さん記者として、新聞の制作に携わっている私です。

ここ2年くらい、あまりの忙しさと、子どもたちが写真を撮らせてくれない問題から、あんなに力を入れていた年賀状が私の心から離れていった気持ちがしていました。一時は宛名を手書きでは間に合わないと印刷仕様にもしましたが、今年は、ずいぶんと枚数も抑えて、50名のお友だちに贈りました。

昭和世代、小学生になった時から毎年年賀状を出し続けてきました。
これはステイタスであり、時にはおじさんが購入した「プリントごっこ」という年賀状を大量生産できるツールを使いこなしたり、カラフルなペンを使い分けて個性を出そうとしたり、ドライヤーを当てるとモコモコ膨らむペンもあったっけ。
どうやったら、親にバレずに好きな人に年賀状を出せるのか考えたり。
「あ、私がポストに入れてくるよ〜!」というタイミングは年々上手くなっていた気がするけれど。

大人になって働くようになったら、上司とか、先輩とか、一気に社交辞令なものが増えたけれど、
11月に結婚したときは結婚報告と新年の挨拶を一緒にしようと企み、結婚を伝えていなかった人にもちゃっかり電撃発表風に出して自己満足。
子どもが生まれてからは専ら成長報告になっていました。

東北の震災が起こった翌年。
私の家族も地元の友だちも大変な思いをしていたとき、「おめでとう」という言葉は避け、自然と、生存報告をした葉書を出しました。
結果として、この生存報告は、夫の最後の生存報告となったことは、なんとも皮肉ではありますが。

あと何年も、一枚のハガキの中に、笑顔で映る家族写真を残せると思っていたのだから笑える。
世は無常。
変わらないものなんてなく、人の心も全て、変わっていく中で、
数十年も変わらずつながりつづけてくれている年賀状友だちは貴重だと私は思うのです。

ポストに届く、私へのあの人からの一枚を待つ自分。
お正月になるたびに、年を重ねるたびに、そんな自分は小さくなってはいくけれど、
結局私は、未だに山に囲まれたあの小さな町から、出られずに生きているのです。

私は生きている限り、最後の1枚になっても、贈る人がいるならば、年賀状は出したいなと思うのです。


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