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ローガン/LOGAN

映画ローガン/LOGAN。 1度目は6月 7日に観た。11日の現在で 4回観たことになる。
6月7日の 1度目はX-MANシリーズ好きの老母を連れて行ったのでそれほど没入せずに観た。(普通にさめざめと泣く程度)しかしながら老いというものを正面から描きつつ西部劇とアメコミというヒーロー文化を背景に実相と実質をこれでもかとぶつけてくる作品の強さに今までの X-MANやアメコミ映画とはまったく違うことを実感し、早く二回目を観なければと思った。

作品の持つ力に動揺していたし私の場合強く惹かれてしまうと、そのうち何も手につかなくなるのがわかっている。そのことばかりを考えるようになる。回数を重ねて冷静になり動揺が治ればと思ったが4回目の鑑賞を終え、結果的にこれまでで一番激しく嗚咽してしまったが。

確かに初回より冷静にシークエンスを眺めることはできる。だが、同時にそれの指し示す矢印もわかるようになる。強く正しい映画は当たり前なのだが、どの場面も無駄も隙もない。ローラのパイプ投げと同じ精度でこちらに矢印を放り投げてくる。4 回観たことによりその速度と威力が増しただけだった。

映画はローガンの24年製クライスラー車がメキシコ系と思しき一団に盗難されようとする場面から始まる。一瞬、ローガンであることがわからないくらいにくたびれた男がヨボヨボと立ちあがる。髪の毛も色が抜けている。攻撃力もあきらかに落ちている。

どういう映画になっているんだ、と思うがいきなりR15指定である理由を提示する場面が続く。
4回観るとさすがに誰の手足がローガンに斬り落とされたのかわかるようになった。だからなに?と思うかもしれないが興行を考えたらレーティングを低くして広く観客を呼び込みたいところだ。だが、ローガンのその人生を鑑みたら生温い描写でいいわけがない。
なぜ彼はあんなに倦んでいるのか。窃盗団から守ったクライスラー車で客として乗せた馬鹿騒ぎする少女や少年たちの「USA!USA!」が虚しく響くのか。その二点がわずか数分で具体的な台詞なしに見事に説明されているのだ。

チャールズの存在もまた今までの映画とは違うことの暗示を強める作用に満ち満ちていた。
エグゼピア、プロフェッサーXが年老いている。認知症になっておりコントロールを失った能力を薬で眠らせることにより制御するという、ずいぶん現実に即した介護の方法で胸が痛む。「私が死ぬのを待っているんだ」とローガンに毒づくが、その世話をするローガンも、拳から膿を絞り出さねばならないのである。あなたは膿を自分で絞り出す屈辱を知ってるだろうか。経験のある人ならわかるだろうが人間の生体反応とはいえ大量の膿を自分で排泄させるときの情けなさは格別である。

ヒーローであるローガンは情けなさに直面させられ続けているのだ。酒に逃げ悪夢にうなされるヒーローは治癒能力も劣化している。
ほとんど私たちと、年老いていくばかりの私とそう違わない現実に彼は晒されていた。老人介護に手を焼き、自身も年老いて疲弊し、くたびれ、自分を呪っている。希望などなにもない。ただ「太陽号」という船を買い海のうえで暮らすというささやかな夢が自死用の拳銃の引き金から指を遠ざけているのである。
ローガンはながい漂泊の生活を送ってきている。つまりそれは故郷をもたないということだ。故郷を持たぬ者の宿命としての孤独と人を殺してきたという苦悩が精神を蝕んでいる。不老不死に近くありながら、そうであるがゆえに彼は生きてはいないのである。

そこにローラがあらわれる。
彼女の存在もまたR15指定の理由だ。暴力だけがR15 指定の理由ではないと主演のヒュー・ジャックマンがインタヴューで答えていた。非人道的な実験の結果産み出され、必要が無くなったので安楽死なり抹殺される人為的に作られたミュータントの子供らの人権についてのレーティングでもあるのだ。

ローガンの遺伝子コードを引き継ぐ娘、ローラ。
彼女を施設から逃しローガンに託すために命を落としたメキシコ人看護師ガブリエラが残した台詞が胸に刺さっている。「私たちは貧しくてもわからないわけではないのに」「自分の娘ではないけれど彼女を愛している。」
現実的なアメリカが現実に存在するあまたの彼女らになにをしているのかという問題と重ねて、そして人間のあるべき姿としてのガブリエラの言葉に涙した。

本作はローガンとローラ、チャールズと三人のロードムービーとしても秀逸なのだが、三人がカジノ&ホテルでボロボロのクライスラーを預け、部屋に入ろうとする手前でローラが洋服のショーウィンドウに立ち止まる場面がある。

マネキンに見入るローラをみたチャールズが「洋服が必要なんだよ」とローガンに伝えるのだが、たしかにローラは洋服もみているが父と娘を設定したウィンドウのマネキンの繋がれた手もみており、そのことに気づくと私は顔を歪めて嗚咽していた。

今作はローガンとチャールズ、ローラとローガンという擬似親子の物語でもあった。言葉を発さないローラの一瞬の目線が物語のラストまで矢印を放つ。ローラがなにを求めているのか。人間が生まれ落ちてしまった以上、切り離して生きることは不可能に近いもの。誰もが求めてやまないもの。それがローラの目線ひとつに凝縮されているのである。

そしてエレベーターのボタンを押しまくる演出にローラが幼い子供であること、その幼い子供がどういう扱いをされているのかが浮かびあがる。
また服を新調してご満悦なチャールズがエレベーターの中でローガンに帽子を渡し着用することを促す姿にめんどくさそうなローガンの姿に自分と老母の姿を見る。
チャールズとローガンの喧嘩は私にとって馴染み深いものであった。
だからこそチャールズの死がローガンの心を打ち砕くのも理解できる。誰もがそうだったろうが。
ローラがそっと握る手を振りほどくほど狼狽するローガンもまた。

X-MENシリーズ全部に言えることだが、この物語は世の中からはみ出した自覚と自意識を持つ者たちが居場所と家族、疑似家族を持つ物語である。
これはX-MENに限らないが物語においてはみ出しているということは世間一般の固定概念やら常識というものから逸脱している状態のことであり、その逸脱は表層の嘘を暴き真実をあらわにするための装置である。それゆえにその装置は他者を生かす思いやりでもあり、ヒーローは道化として存在する。

世間の常識を相手にしながら、誰かを生かすために命をかけ、道化であることを自分で思い知り、自分のそれまでにある種の後悔や懺悔を持ち、それを芯から自覚する者こそが、他者に自分を差し出せるのだ。そしてそこに生き死にする自分を置くことができた時、普遍は生まれる。

映画ローガン/LOGANは普遍を描ききっている。普遍に含まれる真実や実相というものを。そして、生きているとは言えなかったローガンがローラゆえに生きるのである。自分を差し出すのである。
逃げ惑う森の中でローガンの咆哮を耳にした時のローラの表情、視界にローガンの姿が入った時の表情。ローラを演じるダフネ・キーンの才能に出会えたこともこの作品の美徳と思う。

老い。差別。
旅の途中で出会うマンソン一家は2029年という設定の世界でも差別は亡くなっていないという象徴であるしローガンの根底にある西部劇への尊敬が見て取れた。イースドウッドの「許されざる者」が果たした役割をこのローガンも果たしたのだ。「許されざる者」は西部劇に引導を渡した。ローガンによりアメコミのヒーロー映画は人間と実相を描き出すものとして変化した。ジェームズ・マンゴールド監督とヒュー・ジャックマンにより。

施設の秘密を知る看護師ガブリエラがムービーに残していたX-24に関する証言を思い出す。「新しい兵器には心がないらしい」との証言だ。生みの親であるサンダー博士も「子供には凶暴性を植えつけることはできなかったので予め凶暴性を与えた」としていた。 
そういう設定のX-24もローガンとの戦いの中で生みの親のサンダー博士の死を理解すると咆哮をあげ、ローガンに飛びかかって行くのだ。

マンソンの農場で傷ついたX-24に薬を打つ博士に対してX-24 が見せる無表情は幼子が父に寄せる信頼であったというのか。こういう演出が説明的な台詞なしに彼方此方に散りばめられている。ただただ普遍を描いているし、それがアメコミ映画の殻をローガンの爪で貫いたということ。そしてそれは十字架が横に倒され、Xとなるあの墓標にも現れている。ローガンはX-MANにはもう登場しないし、アメリカンコミックの世界にも終止符をうったのだ。

ローガン、とてもいい映画だった。残酷な場面が苦手だとかあの手のはちょっと、と嫌う人にも観て欲しい。なぜなら悪夢のバランスがちょうどいいからだ。だから実相と実質と真実を観るものに突きつけることができるのだ。

@cmrr_xxx夢に含まれる悪夢の成分を無視したら、途端に色あせた世界になってしまう。現実味がなくなる。ファンタジーが効力を失う。

これは川田十夢のツイートであるが、まさにローガン/LOGANにも言えることだ。アメコミ映画を終わらせた作品だからこそ、悪夢の成分が豊富であった。アメリカの病理や認知症、差別、諸々を描きこんだからこそのファンタジーが効力をもつのだし、その映画の持つファンタジーに私は救済されるのだ。このファンタジーがなければローガン同様に私も隠し持つ実弾をいつか装填しなければならない日がくる。それもそんなに遠くない未来に。私をギリギリこの世界につなぎとめているものはファンタジーだけなのだから。

世間一般の固定概念や常識から逸脱しつつ、その逸脱により表層の嘘を暴き真実をあらわにし、他者を生かす道化としてのヒーローは我が国にもいる。車寅次郎その人である。ローガンを観ながら西部劇だけではなく男はつらいよを思い出していたことをつけたしておこう。漂泊しながら孤独であるからこそ寅次郎は己を他者に差し出せるのだ。  (参考 寅さんとイエス/米田彰男)

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