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想像の機関車(私的暴走の機関車)

覚えがあるぞ。川田十夢の思い出に火が付くたびに私もまたあの感覚が蘇ってくる。毎日毎日冷や汗をかいていたあの学校での日々のことだ。
川田十夢の今度のnoteの更新はスイミングスクールでの鬼コーチの特訓とお歌の先生の元で民謡と舞台度胸を覚えたうえで普通の小学校に入学したその後の物語だった。

と、感想文に入るその前に。これは私の記憶がかなり混在してしまうので隙あらば自分語りが嫌な人は読まないでくださいね。と、いうよりもこんなに長い感想文を読んでくれるようなやさしい人は少ないと思いますけども。

トンネルに隠して明文化してこなかった感覚を、もれなく書き残しておきたい区間に突入。と川田十夢は冒頭で宣言している。最初いつまで更新されるのかと思っていたがこれは長期連載になるのかもしれない。

更新されるその度にああでもないこうでもないと感想を書き続ける私自身がそんなに学校に馴染めたタイプではないためになんだか冷や汗をかきつつ毎日をやり過ごしていた日々を思い出してしまう。

実質的天才川田十夢とは違うタイプの喋らない子供でやることなすこと他の子供たちと違うことをしてしまい先生の指示に従えない子供であった。生意気にも川田少年同様に教室で受ける授業は退屈だった。退屈というより意味がわからなかった。

先生が黒板に描いたリンゴに大きくバッテンを描き足す。同じ数だけ手元のプリントのリンゴにバツを描きなさい。なぜきれいなリンゴにバツを描いてリンゴじゃなくしてしまうのか。同じ数だけ記しをつけるならそれでいいじゃないか。小さくリンゴの横に黒丸をつける。でもそれじゃダメらしかった。何度もバツをつけて。と先生に言われた。最終的に先生の言ってる意味がわからないのかな?と言われた。

国語の時間では中能さん教科書を読んでください、と当てられた。私は小さな目を大きく見開いて上下に目線を動かして一生懸命読んでます!というアピールをした。黙読だ。先生はため息をついて他の子の名前を呼んだ。その子はスクッと立って大きな声で教科書を読み上げはじめた。なんで?本を読むんでしょ?うるさくない?と思った。

他にも宿題のシステムを教えてくれなかったから宿題は一度もしたことなかったし、連絡帳も毎日出すシステムなのを知らなかったからいつも朝と帰りの学級会でポカーンとしてた。

そんなこんなの積み重ねで知能検査を受けさせられることになるのだが、しかし川田少年のように算数を国語で考えるような高度なことはしたことなかった。と、ああ自分語りをしてしまった。失敬、失敬。色々思い出しちゃって。記憶のお口チャックしておきますね。人の物語で自分語りなんてふてぇ野郎だ。

とにかく、川田少年は埼玉県和光市立第四小学校に通いながら想像機関車を走らせている。その小学校には教室の窓から見える校庭の隅に蒸気機関車があった。廃車になったものを有志の計らいにより小学校が無償で譲り受けたものだったらしい。

この様子はNHKの番組「ようこそ先輩」に川田十夢が出演した時(2015年)に放送されていた。大人になった川田少年、神妙な面持ちで機関車に触れていたのを覚えている。

いまや大人になった川田少年が書くnoteには時間割と教室に戻ってこれる距離の想像に耽っていたと当時を振り返る記述が続く。想像機関車に私たちも乗っているのだ。そして、

国語
算数
理科
社会

という時間割には駅を経由してゆくみたいに、国語の頭で算数の駅を目指す。算数の駅には、時間割特例で国語の考え方を持ち込むことが出来る。というルールというよりマナーを適用して、国語の頭で以下の問題を解く。

問題:63 ㎝ のひもを同じ長さずつ 9 本に切ります。I 本の長さは何㎝ になりますか?

たしかに単に割り算をしては想像列車の乗客として肩身が狭い。算数的答えは7センチ。7センチのひもが9本あったらどんな物語がそこから生まれるのか。国語の頭で正解を考える。のが川田少年の流儀でありマナー。

川田少年はどんな7センチのものが世の中に存在するのか考える。与えられし定規とメジャーでさまざまな身の回りのものを測れるだけ測っていたのだろう。以下の寸法を挙げていた。

・ペットボトルの直結(横幅)6.5cm
・缶の直径(横幅)か6.5cm

共通点が飲み物であること。そこから飲み物監査局の物語を生み出す。

飲み物監査局は、腰に7cmを紐をぶら下げて今日も査察にやってきた。紐をあてがって、これでよし。これはちょっと長い。どうしてこんな長さになったんだ?店長が問い詰められる。「真綿で首を締めるような」という国語表現があるが、国語の影響を受けた算数の世界では「7cmの紐で首を絞められるような」という慣用句が成立する。単なる算数表現としては数値が合わないから不正解だが、国語世界を帯びた算数表現としてはきっと正解。よりギューギューに首を絞めているのが分かるから。
*日本人の男性の平均的な首回りは35.8cm
*要するに7cmの紐の長さでは首を絞めることは不可能

飲み物監査局は日本工業規格の下部組織…とまた私の妄想を書き連ねそうになるが想像列車に乗るってこういうことだからね。誰しもが自由に物語の続きを考えていいんでしょう?
でもここは川田十夢の列車に乗ってるのだからまずは川田十夢の物語を読むことにする。

・タバコ(ショートホープ)の長さが7cm

タバコの長さからは落語家の物語。

師匠はまだ扇子を与えてくれない。お前みたいなもんはまずはこれで稽古しろ。と、ただの紐を手渡される。このふにゃふにゃの7cmの紐を使ってどうタバコを表現するか。弟子の応用力が試される。

この弟子って奴がまた不器用な根性なしな奴でしてね。ふにゃふにゃの紐をどうやったってタバコにみせられんないってんでおいおいと泣き出した。見かねた兄弟子ってのが「おい、お前ちょっとこっちへおいで」と呼んで靄った船の上でタバコを吸う真似をしてやる。「…アニさん何してんで?」「なにって落語家が口元に扇子持って来てりゃタバコ吸ってるに決まってんだろ」「へぇ、そりゃそうなりますけど、おいらにゃまだ早いって師匠、こんな、紐で、……ヲイヲイヲイ」とまた泣き出しやがる。「ああ、ああ、身の丈四尺七寸もあるくせに泣くんじゃねえよ。いいか、タバコってのにつきものやつはなんだ?」と、想像列車が止まりません。

あと7つの物語を考えて9本の紐を有効活用できるタイプだと自分で思いますが果たして主題はこの場においては違うので脱線はここまでにしますがこういうタイプの授業をしてくれたなら、私は毎日ビクビクしながら同級生の顔色や先生の顔色を伺いながら間違ったんだな…と悲しい思いをしなくて済んだのだと思う。そう思うと、やっぱり今も悲しくなる。

川田少年は当時から実行力があった。国語の頭で算数の問題が解ける愉しみをみんなに知って欲しくて、担任の教師に『時間割を越えて考える時間の必要性』を提案したという。
トラネキサム酸という言葉を近隣の小学生に先駆けて覚えて現代的にサスティナブルな活動にもつながる紐を余らせないために川田少年は必死だったようだ。

5本の紐は理科の時間にアルコールランプで使い、社会の時間で残り2本を産業革命の説明に使ったという。石川純を知る小学生であるがゆえに。…石川純を知る小学生、産業革命って。
とにかく川田少年は校長室にも何度も通う。しかし現実に即した、そして正直なところを校長先生は川田十夢に答える。それでも川田少年のアイデアは日の芽をみなかった。

しかし、PTAのおじさんに現在の活躍を予測するような言葉をかけてもらえる。ちゃんとした大人は子供だからと見縊ったりしない。ましてやそのおじさんは機関車を学校に誘致した人。新たな使い道のアイデアを喜んでくれていたという。

現在の川田十夢の仕事には大きく連なり、想像列車のその感覚でないと出せない答えがたくさんある。
たとえば開発者の頭で芸術祭に参加する。プラネタリウムで音楽を拡張する。リニューアルしたての百貨店や博物館を通りすがっては、ここで問題です。その場所にはどんな問題が隠れてて、とりまく登場人物はどんな人がいて、どのような答えを出してどんな回答を出せば関わる全ての人が喜んでくれるのか。駅ではない場所に、どうしたら人が集まるのか。時間割を越えるみたいに、頭を柔らかくして考えなければ解けないような問題が、実社会にはたくさんある。この想像機関車のアプローチは、職種に関わらずあらゆる現場で生きてくる応用力に接続するはず。プログラミング教育や人工知能の技術が進んでも、領域を越えた考え方をコンピュータが人類に示してくれる日はまだ遠いのだ。

ああ、うっかり丸っと引用してしまった。時間割を越えること、想像列車アプローチの具体的な例が並べてあったから、つい。
自分の思い出を横溢させながら川田十夢は世の中の誰かが困らないように世の中の誰もが自分の場所で自分のやり方で問題を解決していけるようにするためにこれを書いてるのだろう。

川田十夢のやり方を真似ても上手くいかないことだってある。微調整を何万回も繰り返し手に入る職能というものがあるから。あなたの感覚で領域を越えないとならない。

そして川田少年は引っ越しの日を迎える。川田少年が埼玉県和光市立第四小学校で二度泣いた経験の一度目は引っ越しのその日。そんなに馴染んでいるつもりがなかった川田少年はクラスの同級生に愛されていたのだろう。急な転校を告げられて嗚咽する同級生。そのことに川田少年も大泣きした。

それから何年後だろうか。NHKの「ようこそ先輩課外授業」にて先輩として学校を訪れた川田少年=川田先生は後輩たちに課題を出す。
川田十夢が本文に書くように個性的な子供たちが川田先生の課題に答えていく。少し掘り下げてあげると真顔だった子供が真顔のまま、アイデアを出しはじめ、実行し始める。

川田先生は
熱中できる入口は自分で持てたほうがよい』
『余白を見つけては書き込む人生だった。空白には限界があるけど、余白という容器に乗せる想像には限界がない、どこにでも行けるじゃん』
と語りかけていた。

そして授業の最後。ホームルームで時折声を詰まらせながらこんな言葉を子供たちにかけるのだ。

みんな、あそんだり授業を受けたりしてる中で、あいつこんなこと考えてるんだとか、そういうの知らなかっと思うけど、そういうのも自分のなかに余白と想像をもっていたら気づくんですよ。
誰かの想像にみんな目を凝らしたりしているし、そういうものも楽しめるようになる。余白と想像があれば。
子供ってだけでみんな話聞いてくれるわけ。お父さんとかお母さんとか、友達とか。
子供じゃなくなると、そんな物もっててもしょうがないんじゃないかって思うかもしれないけど、そういうことで、自分の人生が楽しくなってくる人もいるし、いろんな世の中の見え方が変わってきたりするから。
これから6年生になり中学生になって、やがて大人になりますが、そういうのを、忘れずにいい大人になってください。…ありがとうございました。』

色んなものをわりと横溢させてる川田先生は真摯に子供たちに伝えようと一生懸命だった。数年経ちもう大人に近い年齢のあの子たち。きっと自分の想像機関車に乗ってどこにでも行ってるだろうと予測する。

おばさんはその放送をみて見ず知らずの土地の見ず知らずの子供たちに幸あれ。と、思いながらこの放送をみて親御さんは自分の子供の成長に大変な喜びを覚えたろうと思った。 

そして先進的な感覚を持った子供たちは気が楽になったことだろう。少年川田の前に現れたおじさんのように、この人はわかってくれる人だとテレビの前で思ったかもしれない。そういうものをこの番組で川田十夢はもたらしていた。

やがて。みんなが乗れる想像機関車を川田十夢は開通させるのだという。開通したあかつには報告があるそうだからその日まで自分の想像機関車で行けるところまでいきましょう。駅を乗り継ぎ、行けるところまで。どこへでも行きましょう。

いつか連結して世界一長い想像機関車で宇宙まで走りましょう。この川田十夢という人はやると言ったことはほぼ実装しますからね。嘘も矛盾もありません。

でも少し暴走を止める練習をしておこうかな。感想文がこんなに長くちゃねぇ。

(文中、黒太字は川田十夢/『想像機関車、国語から算数の駅へ』より引用。もしくは川田十夢の発言になります。)

(こちらにラジオで語った時間割についての全文の文字起こしが読めます。)

こんなに長い感想文を読んでくれてありがとう。感謝します。

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