今、うち自身について思ったこと1

うち自身どんなシチュエーションでもカメラ的第三者的な視点で物事を見ているのかもしれない。

別に、話をしたくない、聞きたくない、群れたくない、人が嫌い、騒々しいのが嫌い、そういうわけではないのだが、私の人生を振り返ってどうもみている感じている触れたものの視点がちょっと浮いている気がした。

学生をしていた時もたとえばみんなで山を登るイベントの時も周りの人と話して和気藹々としていた記憶がない。大体列の1番後ろでちょろちょろとマイペースについて行っていた気がする。

人と話す時も大概聞き手をしている気がする。初対面でいろんなことを包み隠さず話してはいないし、その人との距離感が縮むまでにはなかなかの時間がいるらしい。多分一年とかくらい。なが。
でも私に興味を持ってくれた人とかにはよく話す気がする。普段そんなに話さないから話し始めると馬鹿みたいに話してる気がするけども。

昔から私と接する人は多分元々の雰囲気とか性格とか明るさでどこにいても中心人物に周りの人は作りたがる気がする。うちはそれが本当に嫌だ。
中心になってしまうと私の知る世界だけでことのあらすじができる。そんなのは嫌だ。つまらない。だから人の話を聞くし本も読むし映画も見る。

ことの中心にいる人は言葉を人に届ける。
世の中で言ったなら、政治家だったり小説家だったり歌手だったり脚本家だったり。みんな考えがある。考えがあってみんなに賛同してほしいから言葉を投げかける。
うちは思った。投げかけられた言葉にどう答えるのだろう。
私の中での答えや意見はたくさん出てきた。思いもよらないくらい。でもそれをどうする?私は自分の中で留めている。留めているからその持論をもとに目の前で起きていることをカメラ的な視点でうち自身が見ていることに気づいたのだ。

知らないことを知りたい。
自分の意見を不特定多数に届けたいわけじゃないようだ。
うち自身どんなシチュエーションでもカメラ的第三者的な視点で物事を見ているのかもしれない。
というのはそこから来ているのかもしれない。

知らないことを知ってそれをうちはどうしたいのだろう。次に気づきたいところはそこなのかもしれない。

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