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食えない歯医者の食えないボンビー話

殆ど知られていない歯科勤務医の現実

 歯医者という仕事につきまとうイメージは、高級車を乗り回し、夜は繁華街の端から端までを網羅するように遊び、毎日ように懐石料理やフレンチに舌鼓を打つ。また一方では、患者に平気で痛みを与え、病気の快癒を質にとり、挙げ句は高額な治療費を請求する、そんなネガなイメージをもたれる方も多いだろう。だから歯医者で治療して家に帰ってくると、
「今日は歯を抜かれた」とか「麻酔の注射を打たれた」というふうに被害者意識が芽生えるのかもしれない。願わくば、歯を抜いてもらった、注射を打ってもらった、であれば嬉しいのだが、そこが内科や整形外科との大きな違いだと思う。
  しかし、もっと決定的な違いは、歯医者は世間が思うほどオイシイ商売ではないということ。この点を読者に踏まえていただいた上で、私が歯科医院を開業するまでに辿った道のりが如何にレアであったかをここに記したい。

大学時代から卒業まで

 わたしは私立歯科大学の出身である。当時の入学金は約1,000万、学費は年あたり300万円ほど。これだけ聞くと、
「なんだ、お金持ちじゃん」
 と白けるかもしれない。たしかに不自由なく育ったと思う。母親は寡婦だったが、穀物相場で財を成した成功者として地域では知られた存在だった。そんな彼女も、相場が乱高下するたびにストレスがかさみ、もうけが出ている時は良いのだが、先物の信用取引で穴をあけた日には、ショックで持病のリウマチが悪化して何日も寝込むほどだった。わたしを女手ひとつで育て上げなければならない重圧からだろう、寝込んだときにも小さな短波ラジオに耳を傾けていた姿を記憶している。
 まさにハイリスク・ハイリターン──相場の荒波を乗り切るのに疲れたのか、ある時から彼女は、
「お金が儲かるよりストレスがないのが一番の幸せなんだよ」
 と口にするようになった。優しい母親だったが、傍から見れば守銭奴に思えただろう、なにせ髪に櫛も入れず化粧もしない。ましてや健康に気を配ることもなく、ヘビースモーカーだったことも手伝って歯周病と虫歯が進行し、50歳を前にして歯は数本しか残っていなかった。
 健康と引き換えに彼女には金があった。かかりつけの歯科医もそれを承知しているから、高額な自費治療を勧めてくる。高けりゃいいだろうと母親は気軽に応じたようだが、40万円以上もの対価でこしらえた入れ歯を食事には使うことなく、いつもポケットに忍ばせていた。つまり、来客があった時にだけ見た目をとりつくろう「おしゃれ入れ歯」だったのだ。
 その頃から彼女は、歯医者とは濡れ手に粟のぼろ儲けができるオイシイ商売だと決めつけたようである。
 そんな母親の苦労を横目で見てきたわたしは、彼女を少しでも楽にさせてあげようと、工業系なら当時CVCCエンジンを引っさげて北米市場を席巻していた本田技研工業、生物系ならばビールのシェア9割を誇ったキリンビールへの就職を目指して受験勉強に励んだ。実際、国立大の工学部、理学部、首都圏の有名私立は十分射程に入るレベルには達していたが、わたしが思い描いていた希望に母親はいい顔をしなかった。
 高校三年生の夏、母親はわたしに面と向かって、
「歯医者よ、歯医者。お前は歯医者になるのよ」
 唐突に聞かされた言葉に、アニメ・タイガーマスクのオープニングが重なった。そんな金のかかる大学には行きたくない、わたしがそう言うと、
「いいかい、これは先行投資。卒業すれば高い授業料は回収できる」
 一歩も退く気配がない母親に根負けして、快く提案を受け入れたのだった。表面上は── 
 相場師として生きてきた母親にしてみれば、リスクがあってもダイナミックに生きてほしい、一人息子にそんな願いを託していたのかもしれない。

異変と絶望

 とにかく自分の夢を捨ててまで母親を楽させてやりたかった。他人の不摂生の尻拭いをするだなんて考えただけでも鳥肌がたったが、それでも勉学に没頭することで、そんなネガな意識を打ち消すことができた。順調に進級し、成績も上位だった。
 ところが大学2年の秋、母親に病気が発覚する。多発性硬化症──原因不明で治療法も見つかっていない指定難病。脳の神経細胞が徐々に失われていくこの病気の初期症状は運動機能の低下だが、次第に言葉を発するのも困難になり、終末期には認知機能にも障害をきたす絶望を絵に描いたような病だった。仮説の域を出ないが、過度のストレスによる免疫機能の暴走だろうとも言われている。母親の予感は当たっていたのだ。
 それでもわたしは、母親に楽をさせてやるつもりで、なおいっそう大学での勉強にのめり込んでいった。快癒の見込みがなく、もう二度と自分の足で大地を踏みしめることはないと薄々気づいてはいても。
 そして卒業まで二年を残した春、彼女は逝ってしまった。わたしは亡骸にすがって泣いた。
「どうして歯医者になった姿を見せるまで待ってくれなかったんだよ」
と。
 目標を失ったわたしは、その日を境に勉強意欲も失った。

卒業してから帰郷まで

 勉強意欲は失っていたが、成績は落ちながらも無事、大学を卒業、歯科医師国家試験にも合格することができた。しかし、わたしが失ったものは母親だけではなかった。

悪罵と裏切り

 経済的裏打ちを失ったわたしは、奨学金をもらうのはもちろん、大学に通う傍らアルバイトにも精を出した。ガソリンスタンドの店員、運送業、ゴルフ場の誘導員、お菓子工場の作業員、ワープロ代行業と、その職種は多岐にわたった。
 私立歯科大の学生には裕福な者が多い。駅前の一等地に屹立するマンションを与えられ、輸入車に乗り、小遣いはカード決済──というレベルは少数派だったが、それでもみな潤沢な仕送りを受けて学生生活を謳歌していた。飲み会の誘いを断ってまで、生活費をアルバイト稼ぎだしている者はわたしくらいだったはずである。
 卒業までの残り2年の学費は、母親の蓄えから捻出する──と、番頭頭だった身内の者に聞かされていた。蓄えはそれっきり。あとは自分で稼ぐしかないとも。しかし、これは真っ赤な嘘で、母親の認知機能が完全に失われる前に、彼女の口から開業資金に充てるために数千万円がプールされていることを知らされていた。つまり、母親が用意していた開業資金は着服されたのだった。
 しかし、もうどうでもよかった。母親の苦労に報いる目的を果たせなかった無念さから、わたしは逃げるように故郷を去り、遠隔地で新米歯科医として就職する。それからの数年はまさに地獄だった。
 今でもそういう医院があるかもしれないが、当時の歯科勤務医は、昔で言うところの丁稚奉公に近いか、もしくは職人の徒弟制度とでも言おうか、技術を教えてやっているんだから給料は低く抑えられ、院長の理不尽な罵声にも耐えねばならない。卒後、比較的短期間で開業可能な歯科医は、組織の中で人間関係で苦労したことがない者も少なくない。だから悪罵や暴力は日常茶飯、ありていに言えば従業員ではなく使用人としての扱いだったわけだ。
 わたしの勤務時間は深夜帯で、患者といえば日中、歯を治療する機会を与えられない労働者が殆ど。口の健康状態も心も荒んでいるのが普通だった。なにせ痛みがあるか、前歯の見た目がどうにかなった患者しか来ない。高額の自費治療も、歯列矯正も、ホワイトニングも無縁。それでも日々、痛い、腫れた、前歯が欠けた患者が洪水のように押し寄せ、帰宅すれば午後10時近く、開いている飲食店は居酒屋ばかりだから、毎日のように飲み、脂ぎったつまみを大量に食い、そしてついには体を壊した。
 医療事故も起こした。時間的にも、精神的にも余裕がなく、もちろんわたしの技術が未熟だったのが最大の要因。だけど、日々押し寄せる患者をさばくだけで体力と気力を使い切り、勉強する気概さえ起きない。
 女性スタッフとのいさかいも絶えなかった。わたしだけでなく、彼女らも似たような境遇だったのだ。
 つきあっていた女にもふられた。彼女も歯科医だったが、わたしよりずっと裕福な飲食チェーンの御曹司と二股をかけていたのだった。そりゃあ根無し草のわたしより実家が太い方が、中古の国産リッターカーより外車に乗っている男がいいに決まっている、歯医者というだけではなんのアドバンテージにもならない、それは痛いほど理解しているつもりだった。
 真っ暗なアパートで浅い呼吸を刻むだけの日々が続いた。息を吸い込めば、それがため息となって出て行くのが堪えるからだ。家族はいない。SNSもない。都会で次世代を担う歯科医として羽ばたいてる同級生が時折電話をかけてくるが、あいまいな受け答えに終始する。
 天涯孤独の身の上がこんなにも惨めだと思ったことはなかった。
 季節外れの雪が降った未明、寒さで目を覚ましたわたしは、カビ臭い中古車の運転席に身を沈めてヒーターを入れた。
 そこまでは記憶している。 
 気がつくと、夜明け前の岸壁にたたずんでいた。
 季節は早春。落水すれも間違いなく死ねただろう。
 うっすら雪が積もった岸壁を半歩踏みだしたその時、水平線から太陽が昇ってきた。
 群青色だった黎明の空が、見る間に赤く染まっていく。
 この世は美しい、心からそう思った途端、涙が溢れ出て、景色がにじんだ。
 頬を伝う涙をぬぐうことなく、わたしは車に乗り、自販機の缶コーヒーをすすりながら夜明けを待ち、そして理事長に申し出たのだった。
 もう限界です、ふるさとへ帰ります
 と。

帰郷してから

 帰郷したものの蓄えはなかった。
 勤務歯科医の薄給では開業資金を蓄えることは夢のまた夢。
 どこの歯科医院でも、ひとたび院長の不興を買えば失業保険も雇用保険もない状態で放り出される。
 それでも恨みはなかった。
 勤務医として転々と渡り歩くうちに現在の伴侶に巡り合い、子供にもめぐまれだ。
 結婚後も歯科医として働くことに拘りはなかった。そもそも地方に勤務歯科医の就職口、ましてや好条件での勤務先は多くない。大手百貨店での配送や今の仕事につながる著述の仕事も苦にならなかった。同級生は、歯医者として恥ずかしくないのか? と尋ねる者もいたが平気だった。学生時代のアルバイトでの経験から、職業に貴賤はないことを知っていたからだ。
 わたしは命ある限り働くだろう。
 母親に代わって、家族を幸せにするために。
 旅はまだ終わらない。               (了)


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