見出し画像

『ひとよ』をみた

「昨年秋に映画化されたKAKUTAの代表作。新キャストを迎えて5年ぶりの再再演!」←フライヤーより。
コロナの影響で、当初予定されていた日程と劇場を変更しての上演。
下北沢と言えば、の本多劇場である。
…あれ?わたし…ひょっとして本多劇場初めてか?!
東京在住で「趣味は観劇です」なんて言ってて?…いや、そんなはずは…でもここで『○○』を観たぜ!という覚えが……抜け落ちる記憶、作られる思い込み。まあいいや。
その本多劇場、やはりコロナに対しては厳重警戒であった。
初めて見たとき、あれほど奇異に思えたフェイスガードも、ファストフード店の制服程度に慣れた。消毒と検温も。客席ディスタンスも。
客としては、座席の左右に余裕があるのは快適である。荷物も置けるし、知らない人と肩を突き合せずに済むし、やたらゴソゴソしたり、洟を啜ったり、むやみに咳払いしたり、臭いため息をついたりするような人とも距離を置けて良い。
でもねー、客数半減じゃ商売あがったりっすよね。ただでさえ楽ではない演劇の収支に少しでも貢献したい!という大義名分をひっさげ、ただただ演劇が観たい!という本音を隠そうともせず、わたしはウキウキと劇場に向かうのだった。
ここからネタバレになるかもしれませんので、これから観劇をご予定されている方は後日いらしてね。

舞台には、最近珍しくがっつり作り込まれた生活感あふれる建屋、きっと芝居もがっつりなんだろうと思わせる。お洒落で賢い若者たちが主によく作っている、ハイセンスで高踏な遊戯めいた舞台も好きですよ。
お話は、映画化もされているから知っている人も多いかもしれない。わたしはまったくの初見。
冒頭から、渡辺えり演じる稲村こはるの「今ね、とうちゃんを殺してきたよ!」という明るい告白から始まる。
それを聞く十代の3人きょうだいは全員が身体のどこかしらに包帯をした痛々しい姿、それが「とうちゃん」によるものと直に知れる。練りに練って、何年も機を伺って、子どもたちの成長のタイミングも勘案して、ようやく実行された計画殺人。
こはるかあちゃんは、自分が警察に行った後のことを子どもたちに言い聞かせる。まるでお留守番のいいつけのように。
刑期を終え出所して、さらに世間のほとぼりが冷めるまでを考えて、割り出した時間「15年後」に「必ず帰るから」と。
15年のあいだに大人になった3人は、こはるかあちゃんの意図したようにはもちろんいかず、容赦ない世間の波風に巻かれ、それぞれに屈託を抱えて暮らしていた。
「…まさか今日ってことはないよね?」15年目のとうちゃんの命日に、そのまさかの帰還を果たしたかあちゃん。長いお留守番は終わり、断ち切られた親子の生活が再び始まる。
親子の周りの人間模様も絡め、お互いが濃密に関わり合いながら、エピソードが積み重ねられていく。笑わせるのではない笑い、思わず笑ってしまう笑い、笑うしかない笑いも効いている。
登場人物のひとりひとりが、その生を曲がりなりにも投げずに受け止めている、そうするしか手立てがない、致し方ないのだとしても。
全員に目配りの効いたその物語の世界は、とても優しいと感じた。その優しさは、上から降り注ぐのではない、地を這う足の裏からの優しさだ。
どうにもならなさを、どうにもしないでいることを、ただ見つめる眼差し。その眼差しが、舞台上のすべてに注がれていた。
ラストシーン。比喩でもなんでもなく、震えた。
あの声に、観ているわたしの思いも吸い上げられて、空へ放たれていくようだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?