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並行世界

わたしの実際の名前は浩子という。
まあよくある名前だ。由来、と宣うほどではないが、名づけの経緯としてはひと言で言えば「消去法」である。
昭和生まれにはあるあるかもしれないが、父親は息子が欲しかったのだそうだ。したがって、考えていたのは男の子の名前のみ。…あのさ、確率50%なのになんでそんな強気?と今なら突っ込む。そして彼は、根拠なく強気の男が大抵そうであるように、運がなかった。
ベテランのお産婆さんも驚くほど大きな産声を上げた赤ん坊は女の子だったのである。ざまあみろ。生まれた直後に顔を見た父は、悔し紛れに「猿みてえだな」と言ったとか。今ならその顔が猿みてえになるまでぶんなぐる。
さておき、名前どうすんの?男の子誕生の期待を裏切られて地に落ちた名づけモチベーションで、哀れな彼に何が出来るだろう。まだ見ぬ息子への夢と希望を描いて用意していた名前は「貴浩」
賢明なnoteユーザー諸氏ならもうおわかりだろう。そうです!「貴子」か「浩子」かの二択です!…これほどリアルに、女というものが男の半分の価値であると、アダムの肋骨からおまけ的に創られたイブだと、古今東西を超え潜在的に刷り込まれた差別意識があるだろうか、いやない。さらにこの件に関してはもう一方の当事者である母の意向が一切顧みられていないのも凄い。母にもひとこと言いたい、あんた何も思わなかったの?と。
で、結局「浩子」が採用されたのは、姓との語呂が良かったとか何とか、当時の浩宮徳仁親王にあやかった、とかまったくもって夢も希望もない理由からなのだった。
そして採用されなかった「貴子」、もしこちらの名前だったなら今のわたしと何か違っていたのだろうか、と思うことはある。「たかちゃん」とか呼ばれたりしていたのか、画数が「浩」よりちょっと多いから漢字を覚えるのに手間取ったかも、とか。
さらに「貴浩」だった可能性もなきにしもあらず。こうなると父の夢と希望と身勝手な期待を一身に受けて、今以上に歪んだ大人になっていたかもしれない。
「浩子」のわたしを自明のように受け入れて今は生きているけれど、そうでなかった世界もひょっとしたらあった、それはわたしに限らずすべての名づけに際して開かれていた並行世界への扉。
名前は、その人の一生を通じて呼ばれ続けるものだ。「ひろこ」「ひろ」「ひろりん」「ひーちゃん」と多少のバリエーションはあっても、「ひ」「ろ」「こ」の音がわたしをあらわす要素のひとつであることには変わりがない。
呼ばれること、その音が耳に入り、その音によって自分をあらわすこと、それが名前だということ。それらが人に何の影響も及ぼさないはずがないと思うのだ。あ、いや、どんな影響かはわからないですけど。
わたし自身の子どもの名づけについては、また。

#名前の由来

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