むかしの自分の病いに遭った

むかしの自分の病いに遭った。

やあ、こんなところで、こんなときに。またいつ襲われるかというびくびくした気持ちはあって、片時もあなたを忘れることはないけれど、時が経って、わたしといたときとはずいぶん姿が違うように見える。

姿が見えるのは、病いの種がそのひとの身体を通して病いとして表れているからだ。どこともいえず何か胡散臭くて苦手なひとだなあと思った。けれどこれからすこしの期間彼と付き合わなければならない。

病いは闇のような生き方をする、と思う。病いの種の違いによってそれぞれ個性はあるのだけど、種の気配に気付いて目を向けた途端に雲散霧消するような、実体のつかめない個性をもっていて、生き方をしている。

気付いたら病いの種がわたしに侵入しており、からだぜんたいで乗っ取られているような感覚になっていた。その状態が病いだった。侵入された頃にはもう種はわたしのなかで分裂し、細かなところで根を張り、まるでもとからわたしであったように成長し、生き延びる。

生き延びさせるものと生き延びようとするものの闘いのような関わり、そのぜんたいを病いというのだと思う。病名で括られてはいるものの、病いの種がひとたびひとのなかに入ってしまえば種同士のつながりも断ち切られ、種は病いに変化するなかでますます名付けようのない孤独な何かになる。ひとりひとりが病いを抱えるタイミングによって、まったく別の世界のような病いの仕方をする。

わたしがその病いをしていた頃、なにか内からの絶えない嫌な刺激によって恨みや恥、恐怖、不安などの感覚が呼び覚まされるようでもあったし、その時間には必死で逃げたり格闘する快楽もまた流れていた。

あるとき理由もなく病いが引いてゆき、恐る恐る、自分のあしもとから嵐が去ったのではと思いはじめた。

ずるずると共犯関係を保ちながら一緒に連れ添って生き延びてきた病いだった。自分しかその病いを理解するものがいないという誇りのような感覚がずっと自分にあったことに気付き、なにか得体の知れないものぜんたいに対する自分の無知さに何重かの恥ずかしさを感じながら乱暴に不器用に抱きしめてもいたような、ちゃんと病いをやり直さなければいけないような、追いすがりたいような思いもまた湧いていた。

あの病いのなかにいる、外にいる、彼と今日も会わなければならない。このひとは病いとそんな付き合い方をするんだ、そんなふうに捉えているんだ、とふとした瞬間に気付く。気付く度に時間が止まる。わたしたちは病いのことを話す。病名としては同じ病いをわたしも通ってきたのだ。でも、ぜんぜん付き合い方も理解のしかたも違う。同じ種がもとにあるとは思えない。

あの頃わたしは、自分がなくて病いだけがあるように感じていた。病いが皮膚の表に出過ぎていることが鬱陶しくてうるさくてたまらなかった。その裏側にべっとりはりついている寡黙な、憎しみのような感情に満ちた自分を感じることが救いだった。それが実は、ほんとうは、べろっと裏返っていた状態だったのかもしれないと思う。

自分が皮膚の表に出過ぎていて、その裏側に寡黙にはりついていた病いを愛しみ、まもろう、生き延びさせようとしていたのかもしれない。病いの嵐が去ったとき、病いはわたしのなかに棲むのを諦めたのだ。わたしでは到底抱えられないと絶望し、希望を失った病い。絶望されたわたし。

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