2020.07.06

「自粛」期間、図書館が閉まっていた期間にカードでおもに本を買いまくっていた。その支払いが出来ずにカードが止まってしまって、ひっ、となっている。あー…と思いながら、買い続けていたんだった。この感じは仕方なくて、買い続けてしまう行為はいつか止まるから止まるまで買い続けるということでいい。ということにしていた。
「自粛」以前はコーヒーを飲みに行く体でとにかく外に出るということが自分にとって必要だった。ひとりになり、ものを読むためには外に出ることが必要だった。「自粛」以降の期間は外に出ることができなくなり、毎日ここにいて読むしかなかった。ものを読むには自分がここにいることが必要だった。読んだ。という実感をすこしだけ経験した。ように思う。いつもの感じ、なじみの感じとは違う感じと遭遇した。

その〈出来事〉の存在すらほとんど知られていない「パレスチナ」について語るということ, まずそれ自体に意味があると同時に, 「パレスチナ」をアレゴリーとして, 他者による記憶の分有を狂おしく切望している, ほかのさまざまな〈出来事〉の存在を想起してもらいたいからにほかならない.
岡真理『記憶/物語』(岩波書店)

読んだ。ように思う。けれど、語られなかったことが何かということをわたしは今までもずっと知らない。語られず、読まれることのないことこそが現在語る者のうちがわでまざまざと起こりつづけていることだと、この本で語られていた。どうしても、絶対に、言葉にならない〈出来事〉を外から誰も知ることは出来ない。語る者のうちにある秘密は、語る者がいくら語っても、絶対にほかの誰かに知られることがないということでもある。そして、語る者だけが、語る者自身にとっての秘密を知らなければならない。語る者であり語らなかった者だけしか、その秘密を知ることができる者はいないから。

どの本も途中でやめたり途中から読んだり、「自粛」前からずっと並行してものを読むのが癖だった。語られた〈出来事〉、語られない〈出来事〉が読むわたしのうちがわで混ざる。わたしに読み残されたものも、ここにある。

カードが止まって、手元にあるお金で買いに行ったお弁当を待ちながら画面で記事を読んでいたとき、「狂おしく切望」されたがっていた記憶のひとつとわたしは出会った。電話をもつ手と、顎のところがわなわなと震えて、ほとんど泣きそうになる。ような気がする。そして、わたしが出会ったのはそこに書かれていた言葉ではない。そこに書かれていた言葉は、あとになって外から読むわたしに出会われてはいない。

この期間は読んだ。以前よりは読んだ。とにかく、時間があって、本を買って、ここで読むしかなかったから。時間があって、ここにいるしか自分にはなかった。自分がほかの誰かにできることなどなく、ずっとここにいる時間があり、その時間を享受するのが今は正しいことのようだという状況において、自分の記憶と出会った。なかった時間があることになった。以前と以後の違いはわたしにとってそれだけだった。今まで、ただ、ただ、時間がなかっただけだった。ずっと、ちゃんとここにいたかった。「自粛」の空気を感じる期間は今まで時間がなくてできなかったことをやって、読む時間に充てた。できないということに、いつもちゃんとここにいることができないということに、ずっと怒っていた。

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