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日本語能力試験 JLPTのもやもや

日本語講師をしていると、JLPT対策をしてくださいという依頼はよく来る。
だが、正直なところ前のめりにやりたいと思えるレッスンではない。
無論、プロとして提供はできるのだが。

何故なのか、その理由を考えると個人の感覚として「知識を伝える」ことに重きがあるからだ。

共生政策の中で、日本語教育の充実に関する内容が盛り込まれるのは
非常に大事だと考える。
しかし、その一方で社会における評価は
日本語能力=JLPTという見方が多いのだな、言語教育に携わってない方にはと思う場面が度々あった。

特に「JLPTN3ないとね、通じなくて」という方に出会うと
本当にびっくりするとともに、そのような言説が言語教育の本質を歪め
JLPTにより重きを置くことへ加担しているのではないかと、もやもやする。
中でも日本語教育関係者からこのような発言を聞くと、寂しい。

あるいは「基本的な日本語を身につけてもらって」というのを聞くと
基本的って何を基準とするか共通理解はあるの?という思いもあるが一理認める一方、
コミュニケーションツールの一つに過ぎない言語が
コミュニケーション場面への参加を制限する、
その基準はホスト社会の日本人の話す日本語なのか?と単純に悲しくなる。

断っておくが、JLPTを指標にすることが悪いわけではない。
私は「介護と日本語教育」の中で、JLPTN4相当は必要と書いた。
何故か。
それは、そこまでで学ぶ日本語の表現は、次へ行くステップとして必要だからである。
そして何より、その表現が「外国人生活者自身の命を守る」と考えるからである。
常にサポートしてくれる人がいるわけではないから。日本で生活すると決めたら、
そのレベルで学べる表現は自分のために学びなさい、あなたには学ぶ責任があると学習者には伝えている。

しかし、このJLPTN4だが、実際の運用力(特に口頭での産出力)は?というと、N5レベルよりやや上程度ではなかろうか、とこちらも感覚的に思うことがある。
つまり学習者のJLPTのレベルと実際の運用力の差は見られる場合もある。

ご自身の外国語学習を思い出してもらいたい。

私の英語とて、差があるのだ。しかし、である。
この1年英語学習をしていて感じるのは
文法知識を整理して覚えても、所詮、使えなかった。。ということだった。
必要な場面で何度も間違え、やっと、知識として身についたという感覚
だから継続的にアウトプットする場を設けている。
しかし実際TOIECやら、検定試験を受けたら、きっと点数的には悪いだろう。
しかし業務遂行を何とか行える英語なのだ(足りないところは学習者に教えてもらっている)

語学学習の場面では
知識→運用という形が一般的な印象ではないかと考えるが
運用→めちゃんこ失敗→使えた(知識として定着) と感じるのである。

この辺は第二言語習得研究に詳しいだろう

私の英語で言うと、私より英語が上手な学生が、伝えたいことをフォローしてくれるのだ。
だからコミュニケーションが成立している。
だからこそ、私はもっと伝えられる英語を身につけようと知識の定着も失敗しながら試みる。

言語能力の捉え方を「日本語講師」が変えていくこと
言語教育を専門としない人に説明できるようになること
そして、説明責任があると強く感じるこの頃

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