「分かり合えない」ことを前提にすると?
わかろうとするーこのことに私たちは多くの時間・労力を費やすと考えるが
そこには「わからないとだめ!」といった「わかる」ことをよしとするところがあるんだろうな、と言うことに気づく。普段は無意識のレベルだろう。
こんな考えがふと、浮かんだのは
一つは青色申告者であるため複式簿記をつける必要があるのだが
私は会計ソフトを100%信じ、サポートプラン付きを毎年続けている。
税理士の友人に聞くと
色々な付け方があるからねぇ、と言うので無知な私は混乱する。
ソフトのやり方を100%貫こうと、従い、毎年の確定申告も税務署からダメだと言われないため、正しくつけられているのだと信じている。(希望)
個人事業主なら
簿記の付け方ぐらいやったらどうなの!?と言われそうだが
1から学ぶには、気力・体力なし
お金で時間が買えるなら、分業ということで、とプロに任せている。
しかし、ソフトの入力の仕方に迷った時
「同じ日本語で話していても、持っているスキーマが違うので(仕訳の知識あり・なし)いっていることがわからない」ことが多々あった。
その度に「いただいた回答をこういうふうに解釈しましたが正しいでしょうか」と
たかだか一個の仕分け(初めてのパタン)に数往復して、ようやく、理解のすり合わせができ安心して入力できるのだ。
わかり合えない すなわち、簿記に関する共通のスキーマがなくとも
「わかりたい」と思うから、話す
その前提は、話してもわからないかもしれないが、「わかりたい」
わかんない時もあるだろうな、という、ポジティブな諦めがある
「わかんないから、知りたい、教えて」という。
もう一つは
先日、外国人介護職員を受け入れている/受け入れ検討中事業所向けの
セミナー講師を務める機会があった。
やさしい日本語の広がりもあって
「日本語での伝え方の工夫を!」とスキル的な面に重きはあったのだが
資料を作っていくと、
スキルとして、磨く術はありそうだ。
でも
コミュニケーションは背景・スキーマの異なる人を介して行われるもので
その部分を無視したスキルだけの研修は私にできない。
だから、博論の主張につながる「他者理解と人間関係づくり」までを含めて
「コミュニケーションが伝わりやすい」なんじゃないか?と
参加者に問いかける。
ミスコミュニケーションが起こるときは
圧倒的に「コミュニケーション機会」が足りないと考える。
そういう状況でなされる会話は
失敗すると怖いだろうし
失敗への寛容性も育まれない。
いつまでも、母語話者と学習者という視点がより強固に印象づけられるだけだ。
仕訳の入力のやり取りはお互いのスキーマが違う中
共通理解を探り当てる、いわば、対話だと私は思っている。
そしてその根底には「私知識ないけど、、」「わからんけどさ」という
心地よい、諦め?(語彙力が足りない)がある。
「伝えきれない」「伝わらないこともある」
けれど
あなたとコミュニケーションするつもり
こういう姿勢の方が、断然、ワクワクすると思うんだけどな
博論を書いた当時は「関係性がコミュニケーションを支える」しか
言えなかったが、前提を問うことでまた違った展開になっただろうなと思う。
最近見返して、思考の浅さに、葬ってしまいたい気持ちもあるが
その未熟さを
人に伝えることを通じて、学び直しながら、深めさらに実践へと循環していくことが、私の博論の意義だったのではないか。