なぜ日本のオタクは作者やキャラクターによる政治的主張を嫌うのか?

きっかけは一つのファンアートだった

描かれているキャラクターは『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の主人公とヒロインであると思われる(私はまだ未視聴なので詳細はわからない)

アニメには珍しく同性愛者という設定で、二人は作中で結婚までした。
同性婚が禁止されている日本においては挑戦的なアニメであり、二人の関係性も革新的な表現であった。

しかし、そのことが今、物議を醸しだしている。

削除されてしまったインタビュー記事

冊子では明記されていた「結婚」の二文字が電子版では消されていたのだ。
作中において結婚指輪を嵌めていたにも関わらず、二人の関係はぼやかされてしまった。

そのことは、二人の「結婚」を指示していたファンを失望させ、また議論も呼んだ。
後にガンダム公式はこの事について謝罪をしているが、海外メディアではその姿勢について批判されることになった。

ファンの落胆とファンアート

ジェンダー表現において進歩的であった『水星の魔女』は、従来のガンダムよりも女性の視聴者が多かったと記憶している。

国内外の女性に人気だった「水星の魔女」
しかし、ガンダム公式の発表があってからその流れは変わってしまった

その中で生まれたのが、レインボーフラッグを掲げた「スレミオ」のファンアートだった

主に日本のオタク(一部)からの批判に遭う

一方海外ファンの反応

なぜファンアートで主張してはいけないのか?

日本のオタクに反論するオタクたち

引用リツイート欄を見ると、同性愛表現や政治的な主張の代弁に嫌悪感をしてしているのは日本の男性オタクが多かった。

こんな調査結果もある。しかし同じような男性オタクであってもこのファンアートに対して好意的な反応を示していた人もいたので一概にも言えない。

むしろ性差というよりは、ネットのどの派閥に属しているかの方が大きいのかもしれない。

それほどに政治的な主張をするなという意見の方が声としては強かった

なぜ政治的な主張をしてはいけないのか?

私は文アルのオタクなのでこんな事件が起こったのを覚えている

小林多喜二といえば文アルの中でもトップクラスに人気のあるキャラクターだった。しかし、それ故に小林多喜二が共産党の新聞に紹介された時の反応は凄まじいものがあった。

私個人としては「いやでも小林多喜二って共産党員だし、紹介の一つや二つされてもおかしくないのでは?」の感覚でいたのだが、それが界隈では少数派だったのだ。

自体は公式をも巻き込み、最終的に赤旗とはなんの関係性もありませんと公式が名言したことで終わったような気がする。

実感したのはネット民=オタク層の強烈な左翼アレルギーだった。

それをもう一つ実感した事件がもう一つある。

『遊戯王』の作者である高橋和希先生が自分のキャラクターを使って堂々と政府与党を批判した結果、オタクたちによって叩かれたのだ。

これは権利者が自分の主張を自分のキャラにさせているパターンである。
勝手な代弁ではない。それなのに不満が噴出したのである。

許させる方の政治的主張

しかしキャラクターの利用であっても許されるパターンは存在する。
それは政府与党の考えと一致する時や政権批判をしない時である。
また自分の主張(反LGBT・反フェミニズム・反ポリコレ・反リベラル・反左翼)を補強する時も荒れはしない。

政治利用するなという発言がすでに政治的

「利用して欲しくない」「主張して欲しくない」という意見も十分に政治的であることを自覚しないといけない。なぜなら政治に触れないということも政治的なスタンスだからである。

事の他ツイッターでは政治についての話題を避ける傾向がある。
理由は争いの種になるから。日本だけかと思いきや海外でもそうらしい。

自分でも政治家の不正や変わらない世の中に怒るよりも、くだらないネタで笑っていた方がいいなと感じている。なんかそっちの方が大人な対応だなと思ってしまうのだ。

できることなら、ゲームやアニメ・マンガの話をずっとしていたい。社会について真面目に考えたくない。それが現実逃避であるにしてもそれが一番ストレスから手っ取り早く解放される手段であるから。

日本人にとって作品は不可侵の聖域(フィクション)であり、逆に海外は作品は現実を映す鏡なのかもしれない。そういうスタンスの在り方が今の反ポリコレにも繋がっているように思える。

水星の魔女のファンアートはフィクションの世界に現実を持ち込んだ
それが日本の一部ファンにとっては「きしょ」い行為なのだ

結局自分と同じ意見が安心する

文アルの多喜二が炎上した時、遊戯王の作者が炎上した時、拒絶反応を示したのは政治的には右翼層であった。ネトウヨと呼んだ方が早いかもしれない。

逆に赤松健や山田太郎やそこら辺の政治家がキャラクターやコンテンツを政治利用する時に怒るのは左翼・リベラル層である。

自分と相容れない意見の人がいるというのはそれだけでストレスになる。
キャラクターが自分から離れて、他人の意見を反映する道具にされることを我慢できない人は必ず出てくるのだ。

複雑なコンテンツ事情

フィクションのキャラクターは政治的主張を持たないクリアな人物としてファンは受け入れているところがあるのかもしれない。

今はコンテンツが力を持っている時代、キャラクターというのは万人に受け入れられることを基に作られ、現実のあらゆる問題も持ち込ませないというのが、クリエイターとしてのスタンスなのかもしれない。

例えば女性向けの作品『魔法使いの約束』は株主向け資料に腐女子と夢女子向けと書いて炎上したことがある。

腐女子は男性キャラクター同士を組み合わせて楽しむ私のような人達で、夢女子は男性キャラクターとの恋愛を楽しむこれまた私のような人達である。

今の時代、売れるキャラクターを作るには「含み」が必要とされている。
この「含み」は「匂わせ」であるとか「妄想の余地」でもある。

ファンが好き勝手創作しやすいように「どうぞ」とクリエイター側が料理の材料としてキャラクターを提供している感じ。もちろん料理はファンがする。

そう思うと「解釈の幅を持たせたい」もある意味、企業の本音に近いのかもしれない

こう言われてしまったら、なんも言えない……

特定のキャラクターの性的指向を開示することはそれだけでファンにとってネガティブな情報になる得るのだ。

『水星の魔女』でも百合と勝手に言っているのはいいが、公式でレズにされると嫌な人はいる。

作品に求めているのはフィクション性で同性愛もエンタメだから見ていられる層もいる。

これは男性ばかりではなく、女性もそうだと思う。
女性向けゲームの男性キャラがゲイという公式設定にされて特定のキャラと結婚するなんて展開になったら100%炎上すると思う。

自分達で勝手に盛り上がる分には百合やBLを許せるは本当にあると思うなぁと一連の騒動を見て思った。

ファンがファンならコンテンツを作る側も作る側で、日和るのがどうしようもない。今の日本は同性婚が禁止されているからこそ放送する意味がある作品を自分たちでその良さを捨てた感じ。

そこには商売上の理由やスポンサーや権力に対しての忖度もあるのだろうけど。ルールをぶち破ってクリエイターのポリシー100%で作られた作品を見て見たいよねって気持ちが勝ってしまう。

そこにはクリエイターの意志によってポリコレ的な要素が入ることも却ってポリコレが邪魔になる時だってあるだろうけど。

なんか中途半端で終わるのが一番よくない気がする。
あと私はちゃんと『水星の魔女』を見た方がいい

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