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「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」

印象派のあと、今では「ポスト印象派」と呼ばれるさまざまなムーブメントが起こりました。

印象派は「見たまま、感じたまま」と言いながら、光を追求しすぎたために情緒性が失われてしまい、感動が生まれにくくなってきたのだと思います。

そこで出てきたのが、ゴッホやゴーギャン、セザンヌです。

彼らは印象派を批判しつつも受け継ぎながら、それを超える作品を目指しました。
3人の作風は違いますが、共通するところは「ハッキリとした色彩で、描きたいものを描く」こと、つまり画家の主観を入れてきたということですかね。

「今のままの自分でいいのか?」と自問している人たちの話を聞くたび、私はなぜかゴーギャンのことを思い出します。

ゴーギャンは23歳でパリ証券取引所に就職し、11年間ビジネスマンとして活躍したという経歴の持ち主です。
アートの収集をする傍ら、カミーユ・ピサロの指導のもと絵を描きはじめ、1881年と1882年には、印象派展に出展しています。
作品は酷評されたようですが・・・。
1882年に株式市場が崩壊すると彼の収入は激減し、画家で生計を立てる計画を立てます。

すごくないですか?
酷評されたのに、画家になることを決めたのです。

彼には4人の子供がいたのですが、一人を引き取り妻と離婚します。
その子供は極貧で病気になるほどでした。
しかし妹の支援で寄宿学校に入れることができ、一人の生活が始まります。

妻と子供のことを考えるなら、なんとか一緒に暮らす方法を模索すると思うのですが、彼はそうしませんでした。

そして、1887年にゴッホと出会います。
1888年にはアルルで同居生活を始めますが、2ヶ月で破綻。
その後、ゴーギャンは43歳の時、タヒチへ旅立ちます。

タヒチでの滞在中に、一番好きだった長女アリーヌの死を知らされ、大作「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」を完成させた後、ヒ素を飲んで自殺を図ります。
しかし自殺は失敗に終わり、ゴーギャンは生き残ります。

死ねなかったのですね。
まだやらなければならないことがあったのでしょう。

その後フランス領ポリネシアの最果て、マルキーズ諸島のヒヴァ・オワ島へ移り、「逸楽の家」を建てて55歳で亡くなる間際まで作品の制作をしたそうです。

家族とも離れ、貧困のうちに亡くなったゴーギャンですが、人間の存在を問い、西洋の芸術を変えようとした彼の作品は多くの作家に影響を及ぼし、西欧文明を否定するダダとシュルレアリスムに受け継がれたとも言われています。

「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」
このようなキリスト教教理問答は、10代の頃に神学校に通った際に植え付けられたのではないか、と言われています。
娘の死によってその問答が思い出されたのかもしれませんが、そもそもフランスで普通に生活することをやめ、タヒチでプリミティブな生活を始めたゴーギャンは、常にその答えを探していたのかもしれません。

これは私の勝手な妄想ですが、人間は誰もが「自分は何をしに生まれてきたのか」実はちゃんとわかっていて、それを成し遂げるために生きているんだと思うのです。

ゴーギャンは絵を描くことが好きなので、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」の答えはアートの中に見つけられると思ったのではないのでしょうか。そして、それは西洋的なものではない場所で見つかる、と。
家族や地位、お金のことを考えず、自分の好きな道、信じた道を突き進んだので、彼はその後のアートに影響を与え、後世にも残る作品を作れたのだと思います。

自分のしたいことは本当は見つかっているはずです。それをひたすら続ければいいのです。

お金を稼ぐことも、社会で地位を築くことも、家族を作ることも。。。
それらは今世やらなければならないことの一つかもしれませんが、それだけではないですものね。

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