感情についてのメモ - 自分を飼いならす(apprivoiser)

普段からお互いのことを知っていて、幻滅されるんじゃないかとかそういう余計なことを考えずにみっともない自分も正直に出して話せる気のおけない友だちって、貴重だなと思う。

昔、心の調子を年中崩しており、仲のいい友だちによく相談に乗ってもらった。電話であーだこーだひとしきり相談したら今度は向こうが「実はさ、」と切り出した話に「え!マジか!」となって今度はそれについて語り、長電話の最後らへんは他愛ない話で笑ったりして「元気出たありがとう」「私も楽しかった、またね」とか、そういう感じの。
しかし歳を重ねて日頃の感情の揺れや悩みも激減し、あったとしても自分でほぼ解決できるようになってから当時を振り返ると、あの頃私のネガティヴなオーラに付き合わせて悪かったなと思ったりした。そして実際おおむね元気なので、久々に話しても「元気だよー」となり、する話も基本的になんとなくお互い元気になるような内容になっていき、「私の感情の平らかなることよ。思えば遠くへ来たものだ」と感慨深く悩み相談もいつしかあまりしなくなった。

そんな感じで「私は前より成長して強くなったな」と自負していると、自分の調子が悪い、後退している時があってもそんな自分を見せたくなくなるものなのかもしれない(実際は前進とか後退とかいう話ではないのだけど)。その友だちに限らず、対外的に、落ち込みや不安、劣等感、嫉妬、迷い、などといったネガティヴな感情は、なんであれ言わない習慣になんとなくなっていった。
というのも、最初は「どちらかといえばそのほうが相手も自分も気分いいから」的な軽い理由から出る「人になるべくネガティヴなことを言わないでおこう」ぐらいの思いだったはずが、どこかの地点から「こないだはあんな立派なこと言ってたくせに実はそんな進歩してないじゃん、と思われて幻滅されたらどうしよう」的な臆病さや見栄から出る「人にネガティヴなことを“言ってはいけない”」に変形してゆき、小さな迷いや弱音を(無自覚に)隠して元気にふるまうことが積み重なっていく、というのが近いかもしれない。

で、そんなふうに、「ネガティヴな気持ちを小出しにしてその都度解消する」というしなやかな感情の表現方法もいつしか忘れたまま、鈍感にも「今日も私は元気」などといって過ごしていると、ある日、ひょんなことが蓋をした感情にクリティカルヒットしたとき、涙がぼろぼろ出て止まらなくなるとか、取り乱して自分でどうすることもできない、という事態がまことに突然、発生したりする。
それはつまり、もう一人の自分が「我慢してたけどもう限界です!」の状態なので、こんなことになるなら、ちょっと情けなくていいから日頃から小出しにぼやいてたほうが百倍マシだったじゃん!というのは時すでに遅しで、かつ疲れて弱ってもいるためいろんなことに傷つきまくる。「こんな低レベルな弱音吐いたら恥ずかしすぎる、感情をコントロールできない面倒臭い人間だと思われて信用を失ってしまうの怖い、傷つくのいやだ〜!」みたいにパニックになったりして、余計涙は止まらず無駄にドラマティックな事態に。風邪気味の段階で養生してぐっすり寝て直せばよかったものを、無理してこじらせ入院する的な(とはいえ、小出しにぼやいても、溜めて暴発しても、あとそもそもそんなこと問題にしたこともなくても、単に自分がどれを選択してるかだけの話だと思うので、良し悪しを言いたいわけではないです)。
ひとしきり泣いたりして暴走が落ち着いたころ、「そっか、私は強がってたのか」とはっとしたり、「相談するときってどうやって切り出すんだっけ」と考え出したり、、、

そんなことを学んだのでした。それに近いことが最近あって。

自分でも無意識に強がったり、自分を良く見せようとずっとしていたことに気づくと、なんでも口に出せばいいってわけでもない思うけど、でも結局ネガティヴなことも含め自分に正直でいることだよなあと思う。その自分の正直な気持ちがわかってないと何も始まらないし、なによりネガティヴな感情を持ったり言ったりする自分も許して愛してあげられるかっていうのが重要なことだと思う。
個人的には、これできるようになることはものすごく大変に感じる。自分の気持ちがはっきりわかる時もあれば、気を抜くといつのまにか自分はどこかへ行ってしまい、いくら感じようと頑張ってもあれもこれもよくわからない時もあったりする。それはつまり、自分をないがしろにしてきた(自分自身の心から出る他愛のない話やぼやきに付き合ってあげなかった)時間の蓄積の産物でもある。「今頭に浮かんだことについてもっと丁寧に感じてみましょう」とか紙に書いて部屋に貼っておくといいかもしれないな。何でもかんでも、すぐ忘れてしまうので。

「自分の感情を常に自覚して受け入れる」ということ1つとっても、それについて考えたこともないくらい最初からできてる人もいるだろうし、自分より先に環境や他人のことを考えてしまう長年の癖から抜け出そうとしてる人もいるだろうし(私もだけど)、本当に人はそれぞれまったく別々の世界を生きててすごいなと思う。できてる人から見ると、なんでこんなことができないの?とイライラされそうなことまだやってる自分、と苦笑したりするけど、どっかの誰かになんてなれはしないので、気づいたら自分に視点を戻す、の繰り返し。

いま私が日頃関わってる人たちはそのほとんどが自分の意志で選択したことを自分の責任において精一杯楽しくやってる人たちなので、自分が昔の悪い癖に引きずられて自分をなおざりにしてしまってる時にそんな人たちと接すると、強烈な劣等感に消えてしまいたくなることがある。これって要するに「自分を生きてないよ」と教えてくれていて、世界って愛情深いなと思う。人と会わずに一人の世界にいたら気づけなかったこと。そこは元気になってから気づくのだけど。

だから人はメンターを置いたりするんだろうし、これもある意味メンターなのかもしれないけど、「何気ないことを率直に自分を飾らずに話せて、客観的な意見をくれる友だち」のありがたみを思う。そして、友だち、人とのつながりって(これは自分に対する態度に直結してると思うんだけど)愛がないと、死ぬことはなくても「凝る」よね。

人間関係を考えるときよくサン・テグジュペリの「星の王子さま」を思い出す。その中で、「王子さま」と「バラ」との関係(けっこうエグ味があって、切ない恋愛のようでよく読むとぶっちゃけDVでは?と思わなくもないんだけど、今は単純に人と人の絆の話と捉えます)のことを「キツネ」が「apprivoiser(tame、飼いならす、家畜化する、手なずける)」と表現していて、さらにそれを「きずなをつくる(créer des liens)」ことだと言う。

君がバラのために時間を浪費したから、君のバラはたいせつな存在になったんだよ。(- C'est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.)

ほんとうにそうだなあと思うのは、たとえば長電話でお互いの時間を割いたりとか、さらに1/3ぐらいはただふざけて笑ってたりとか、ある意味時間の浪費とも言えるわけだけど、そういうのの積み重ねが確実に関係性を作っていくよなあと思うし、これを時間の無駄だとは思わないところがきずななんだと思う。
これは自分に対しても同じことだねきっと。自分自身のしょうもない思いを聴いてあげたり、くだらないことでふざけて楽しんだりして、自分のために時間を浪費してないと自分のことなんかわからないし、逆にそれをするほど自分とのきずなも深まるし自分を信頼できるようになるんだろうなと、思った。のでした。それを毎日何分何回やることで何にどれだけ効果があるのだとかを測るすべはないけど、大切なことな気がする。

さようなら、キツネは言った。これはぼくの秘密。それはとても簡単なこと:心で見ないと、ものごとはよく見えない。肝心なことは目に見えないんだよ。(- Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est très simple: on ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.)

感情が何か揺れた時は、新しいことに気づくチャンスだと思っていて、なんとなく書いておきたくなった、最近考えたこと。

*参考 http://microtop.ca/lepetitprince/chapitre21.html 

ありがとうございます!糧にさせていただきます。