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搾取されるべきでない私やあなた

アフターピル問題しかり、このところネットでジェンダーの社会構造的不均衡にまつわる話ばかりがよく目に飛び込んでくるのは私の気分のバイアスのせいだろうか。

なかでも先日読んだカオスラ問題のご本人の告発記事はここ最近で一番へこんだ。あれ以降個人的につらつら考えていたことを記しておきたい。

セクシュアリティのこと

社会的に性別を求められるのがずっと鬱陶しかった。自由な形だった自分を社会に都合の良い窮屈な箱に折り畳んで入れさせられるような感覚。セクシュアリティについて深刻に悩んだことはこれまでないものの、その窮屈な感覚は実は自分のセクシュアリティに起因しているのでは?と思ったりする。
私は小学生の頃は男子のコミュニティにいる時間が多く、特に4、5年生ぐらいは男子に近い感覚でいた。一方で女性と見做されることにも特に違和感はなく身体的にも女性なので、成長するにつれ自然と女性に寄せて(戻して?)いった。「男性」か?と問わればNO、「女性」か?と問われればYES。ただ「女性」の自認はできても、自覚のようなものがない。「女性像」として思い描くものと自分自身は少し違うところにあり、「女性である私からすると〜」のような言い回しにも身が入らず避けるぐらいには躊躇いがある。
現状からするとシスジェンダー女性でヘテロロマンティックでヘテロセクシュアルに分類されるし、それもまあ合っているのだけど、基盤の部分である自覚が希薄なため「本当にそう言えるのだろうか?」としっくりこない。そしてヘテロセクシュアルよりはバイキュリアス(一昨日この単語を知った)だとも思う。セクシュアリティは考え始めると誰しもこれぐらいしっくりこないものなのだろうか。あるいは私は厳密にはクィアとかノンバイナリーを表明した方が適切なのかもしれない。
ただ結局、私は私であるだけだと言いたい。それ以上何者なのかについてはまったく腑に落ちていないし、腑に落とす必要もないと思っている。

記号扱いされるモヤモヤ

ただ、そんな私でさえ身体的性別が女性であるがゆえに男性との関係で負荷を余儀なくされ「女性だなーーー」としみじみ思ったことはある(いろいろあいまって当時の私にはつらい経験だった)。
相手男性(仮称:Aさん)にとっては私は、おそらく「消費の対象としての女性」の部分が大きかったのだろうと思う、「俺アラカキさんを搾取してしまいそうだ」と言われた(正直だ)。相手に敬意や好意を抱いていた手前、その言葉から私に対する率直な見解が読み取れて傷ついた。平たく言えば軽い失恋。
Aさんは聡明で話がめっぽう面白く楽しかったが、性的な話題になるとき私はしばしば自分が「私個人」ではなく、女性、というか「女性という記号」になったような感覚になり、楽しい反面、自分が身体的負荷を背負わざるを得ない女性だという現実もあいまって侘びしくモヤモヤした複雑な気持ちになった。

それは、それまでちゃんと意識していなかったが身に覚えのある感覚でもあった。
たとえば、大学の友人どうしのコミュニティでも女性経験の有無や胸の大小を理由に仲間をいじる光景がよく見られたのだが、それは当事者が男女にはっきり分類されその人個人ではなく「(卑下されうる)記号」として扱われうると同時に、当事者と同性だと自認する者にとっても「俺が見えないのか すぐそばにいるのに」案件だっただろう。今で言うところの「ホモソしぐさ」かもしれない。男性比率が高いコミュニティってこんな感じだよね、とたかをくくっていたのもあるが、前述のように性別の自覚が希薄なことで強く感情移入せずにいられたのかもしれないと思う。空間を共有していながらいろいろスルーしていた私はズルかったなと自省してしまう。
その、側から眺めていた小さな違和感は、のちにAさんとの1対1のコミュニケーションで正面から向き合うことになり認識した侘しいモヤモヤとどこか似ていたように思う。

私=搾取されていいもの、と自認した自分への屈辱感

「惚れたら負け」とはよく言うがそういった立場の上下とはまた別の次元で、ある類の「女性」であることを強いられているようなこのモヤモヤが、言語化すると「屈辱感」であったことに今回ようやく気づいた。
私はAさんをここで「ひどい人だった」と批判したいわけではない。そんな思考停止はつまらないし、そもそも関係性は共犯的に作り出したものだと思っている。自分の中になかった世界の見方や気づきを多くもらってどちらかと言えば感謝しているぐらいだ。

では何が屈辱か。好意を持った相手に忖度して「女らしくなろう」とするとき、同時に「搾取されるものになろう」とする傾向が自分の中にあったことが今ならわかることだ。
それは「女=搾取されてもいいもの」という観念を無自覚に内面化し甘んじて受け入れていたということであり、自分で自分を貶めていたといえる。つまり、あの時感じたモヤモヤ(屈辱感)は、相手ではなく自分自身に対してだったのだ。相手は私を映した鏡だった。
当時はそこまでは気づかなかったが、いずれにしろあの頃を機に、私は搾取される立場になどなりたくないし「人×記号」ではなく「人×人」の関係を望む、という意思を持つようになっていったように思う。

自問すること

冒頭で触れた告発記事の内容は想像以上にキツかった。内容が真実であれば、記載の状況で再三の対応を自ら続け、あの文を書き切り公開した彼女はほんとうによく頑張れたなと思うし、どうかサポートを確保し身を守れる状態でいてほしいと願う。

あれ、私だったらどうしただろうと考えてしまう。
今なら後先考えず速攻辞職するだろうが、昔の私だったらと思うとだいぶ憂鬱だ。仕事を信頼していた(敬意を持つ)相手に期待され声をかけられたら私個人として嬉しいだろう。重要なポストを任されたら私個人として責任感出して頑張ってしまうだろう。性的関係と自分の仕事をバーターで出されたら女性として侘しさを感じながら引き受けてしまうかもしれない。「役員・スタッフ全員が男性で、相談できる相手がいなかった」という一文から、彼女は潜在的に「自分は分が悪すぎる」という諦念を少なからず持っていたのではないかと想像してしまう。読みながら胃が痛かった。

セクシュアルな話題は常に当人のセクシュアリティによって受け止め方が千差万別にならざるを得ないと思うが、でも基本的にはやはり「人が感情を持った人間であることがないがしろにされるとき」、そこに大小のモヤモヤが生じるように思う。それは、惰性や見て見ぬフリの果てに、あるいは環境によって、容易にエスカレートするもののように私には思える。
ホモソーシャルな人間関係のあり方もいよいよ断捨離し、個々人が自身のデリカシーのレベルを意識することなしには、多様性がリスペクトされる住み良い社会など到来しないのではないか。立場の弱い者への搾取が黙認される事態は異常だし、対岸の火事でもない。
コミュニティにおける力動が、その構成員やコミュニテイに属する(もしくはまわりにいる)女性・立場の弱いひとたちを傷つけている可能性を律儀に自問するぐらいの態度が、今のフェーズでは社会に求められているのかもしれない。
あるコミュニティ内や周辺で傷つきながらも発言する力を失っている女性・立場の弱いひとたちが、自分のモヤモヤした感情を認識し、かつそれが拒否や抗議を表明・主張するに足るものである、と自信を持って思えるような社会に早く移行してほしい。
無意識的にも意識的にも「自分は搾取されていい存在だ」「(大なり小なり)自分の感情をないがしろにされても世の中はそういうものだからしかたない」と思うとき、それは他者に対しても同じように捉えていることを意味する。自分も含めないがしろにされていい人間はいない、と自信を持って思えなければ、状況が反転したら同じ穴の狢になるだろう。

そんなことを、自戒を込めて考えていた1週間だった。

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Hiroko Arakaki
ありがとうございます!糧にさせていただきます。