あなたの「ひめゆり」を聴きたくて…19歳の「原点」を振り返る
沖縄県糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」。
つい先日の2021年6月上旬、間もなく沖縄を離れる友人と足を運んだ。「毎年1回は訪れよう」と決めていたのに、しばらく行けなかったことを反省しながら。
その数日後、同館の【ご寄付のお願い】とのツイートを目にした。昨年度の来館者が86%減となったことを明かし、寄付の協力を呼び掛けていた。
→寄付は「ひめゆり平和祈念資料館HP」から
少額だが寄付した。何としても残したいから。
自身にとっての「ひめゆり」を振り返るうちに、たくさんのことを思い出した。そして、きっと多くの方が「自分にとっての『ひめゆり』」を胸に抱いているのでは、と思い始めた。
いろんな方の「ひめゆり」エピソードを聴きたい。
呼び水になればとの願いを込め、現在47歳の私が、19歳の「原点」を振り返ってみようと思う。
はっきり言って、私の経験はレアでも深くもない。目的は一つ。寄付を増やしたいから。誰かの「ひめゆり」エピソードによって「応援しよう」「寄付したい」という人が増えるかもしれないから。
ということで、コメント欄でもメッセージでもいいので、ご自身にとっての「#ひめゆりエピソード」を綴ってもらえると幸せに思う。
民間運営の「ひめゆり」 、来館者9割減で経営危機に
1989年に開館した「ひめゆり平和祈念資料館」は民間の資料館だ。入館料と寄付で運営している。戦前の沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の同窓会「ひめゆり同窓会」を母体とする「財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会」が設立した。
沖縄戦の実相を伝えるという、とても大切で難しい役割を担っているが、公的な資金は受けていない。
経営の厳しさは琉球新報の報道で知っていたし、気にもなっていた。観光客も修学旅行生も激減する中、「大変苦しい状況」なのは当然すぎる話だ。
「ご無理のない範囲で」に感じること
沖縄は観光立県だ。コロナ禍でダメージを受けているのは「ひめゆり」だけではない。全ての観光関連施設が極めて厳しい窮状だろう。観光産業以外だって無関係ではない。観光客が減ればホテルや飲食店に食材を届ける卸業者、生産する農家や漁師、物流を担うドライバーさんも影響を受けている。
沖縄における「仕事」の多くが、観光産業と観光客につながっていた、という当たり前すぎる事実をこの1年、私自身も嫌というほど目の当たりにしてきた。
ひめゆり平和祈念資料館がツイートの中であえて、「どうかご無理のない範囲で」との言葉を入れたのは、発信された方が、人々の暮らしの窮状を身に染みて理解しているからだと思う。
みんな苦しい。どこもかしこも大変だ。
それは分かっている。でも、何としても残したい場所なのだ。
19歳の自分を振り返って思う
ひめゆり平和祈念資料館は、私にとっては「原点」の一つだ。
きっと多くの人が、似たような思いを抱いているのではないか。同館のツイート後、わずか2日間で約5千件、約1750万円もの寄付が集まったことからも、そのことが伺える。
沖縄に縁もゆかりもなかった私が、初めて沖縄を訪れたのは1993年、東京・八王子の大学に進学した1年目の夏のことだ。当時はまだアットホームさが残る昔の那覇空港。飛行機を降りたとたん、もわっと粘っこい空気に包まれたのを覚えている。
飛行機に乗るのも初めてだった私を待ち受けていたのは、びっくりするほど青く透き通る海だった。本物のサンゴはあるし、泳いでいる魚が見える。今まで知っていた海とは全く別もの。エイサーにも心を奪われた。やちむんや琉球ガラスにも! とにかく19歳の私は沖縄の自然と文化に魅了された。
そして夢のような数日が過ぎ、社会人だった姉と姉の友人は先に東京に帰った。
私は夏休みにかこつけて、沖縄に1人残らせてもらった。路線バスで南部を巡り、最初に訪れた場所が「ひめゆり平和祈念資料館」だった。
知らなかったことへの衝撃
初めて訪れた「ひめゆり平和祈念資料館」で、私は苦しいほどの衝撃を受けた。
「学徒動員」
「日本兵による住民虐殺」
「強制集団死(当時はまだ「集団自決」と言っていた)」
沖縄戦そのものに対する衝撃はもちろん、何よりショックだったのは、自分が「何も知らなかった」という事実に対してだった。
小中高校で曲がりなりにも社会科を学んできた。成績はさておき、授業は普通に受けてきたつもりだ。「ひめゆり」という言葉は知っていたが、「沖縄」とは結びついていなかったのだ。
「自分がいた」と感じさせる場の力
リニューアル後も変わらない第4展示室「鎮魂」の空間-。
そこには沖縄戦で亡くなった「ひめゆり」の教師と生徒227人の写真が掲げられ、名前と性格なども紹介されている。その一人一人の遺影を前に、19歳の私はなぜか「自分はここにいた」と感じてしまった。
いま振り返ると、それが「場」の力なのだと思う。
沖縄戦の実相を消し去ってなるものかと、命を削る思いで同館を設立した「ひめゆり同窓会」の皆さんの思いが、息づく場所だから。
心の奥底に封印していた体験を、元学徒の皆さんが苦しみながらも語り残してくださったおかげで、私は「戦争」の一端に触れることができた。戦場の恐ろしさ、そして戦争で人はどれほど残酷になれるのかを。
今につながる19歳の出合い
幾つもの衝撃を受けた沖縄旅行の後、東京に戻った私は大学の構内で「エイサー隊募集」の貼り紙を見つけた。そうして沖縄出身者の輪に加えてもらった。慣れない琉球音階とリズムに戸惑いながらも、心と体が喜んでいた。
そして、気が付けば「沖縄平和研究会」なるサークルに入っていた。3年次にちょうど戦後50年の節目だったこともあり、「ひめゆり」や沖縄戦を伝える展示会や、体験者を招いた講演会などを開催した。
「もっと沖縄のことを知りたい」と卒業後は沖縄の新聞社に就職した。この春に退職したが、今も沖縄に暮らしている。私が沖縄で暮らしている理由は幾つもあるけれど、沖縄へと導かれた原点の一つは、間違いなく「ひめゆり平和祈念資料館」だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。良ければぜひ、皆さんの「#ひめゆりエピソード」をコメント欄で聞かせてくださいね。
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