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自分と世界を統合する これが私の生きる道

威勢の良い文章であれこれ「こう思う」と、たくさん書いていた時代があった。
多くは、自分の外側のことについて、その時感じたことであり。
その刺激に反応した己の内側について、過去の自分自身に向けて書いた。

その頃、繋がりがあった人たちには、そこそこの波紋を投げていた。
ブログを読んで、会いにきてくれる人達。
多くの人が集うと、初対面なのに私を知っている人がたくさんいた。

中には個展を開いてくれた人もいた。
安価ではあったが、3日で150枚の色紙を売り上げたこともある。
私からは見ず知らずの、読者だという方から、30万の龍画をメール一本でオーダいただいたり。
私の作品世界をイメージして曲を作りました...と音源を送ってくれた方も。

そうしたことの多くは、作品の世界観であったり、それを補強する強い言葉と強い文体による発信がもたらしたもので。
そのやり方は、当時は間違ってはいなかったと思う。


それが。
ある時期から、パッタリと、書けなくなった。

私の文章について示唆してくださった方たちがあり。
繋がりのない複数の方向から、同時期に、それが起き。
そして、その方達のおっしゃることは、共通していた。

何を書いたらいいか、わからなくなった。
それは、受け止めきれなかった自分の未熟さからであり。
そんなの関係ない、と言い切る強靱さがなかったからでもあり。


そうして発信は途切れ、ブログは止まったまま、今に至る。


そして、今、思うこと。

どうやったらいいとか、何を書いたらいいとか。
そういうことではなかったのかも知れない。

そんなことは、むしろ枝葉の問題。

自分自身の描く/作る絵画造形品の「作品世界」と、私自身の「気持ち、意識」。
それが一致していないことから生まれる「気持ち悪さ」や「違和感」が、原因だったのではないか。


作品と自分自身の間に乖離がある。
そのことは、ずっと、指摘されていた。
自覚もあった。
むしろ、その乖離を「自分ではないものが描く」ことの看板にしていた。

作品は私ではない。
私の手が何かに動かされて作品を生み出す。

その感覚は今でも変わりないのだが。
その不一致を自分の特徴にしている限り、私は私に対して胸を張って「売る」と言えない。
だから、値付けに及び腰になる。

好きに描いていられればいいんです、売る気とかないの。
...というのが本音なら、それでもよかっただろう。

あるいは、あくまでも身体を貸すだけの立場であると断言できたなら、それでもよかっただろう。

残念だけど、私という人間は、そのどちらでもない。

作品を売って利益を出したい。
私の関係者にも、私の作品をもとにした利益を受け取ってほしい。
私は「身体を貸す」許可を出したことは一度もない。
もちろん、紙の上に何が描き出されるのか、私の頭はまるでわからないし、一筆先の予測もできないことも多くて、それは貸してるというしかないじゃないか...という気持ちもあるけれど。
でも、本気で「貸してもいい」と思ったら、「フルトランスになって気がついたら絵が完成している...なんてことだけは絶対に許さない」という宣言まではしないはず。



自分の手から生み出されてくるものを世に送り出す、ということに、大いに意義を感じている。
それは事実。

だから神仏も龍も私の手を動かした。

私は合意して、一度捨てた絵の道に戻った。


もうそろそろ、私本人と、私の作品世界とを、しっかりと統合する時期が来たのだ。


天下泰平の世になってほしいと、願っている。

世界も人も讃えるために、モノづくりをする。

その二つが一致しているのだから、他のことは些細だ。


手と頭は、ここに、一体となって世界へ作品を送り出していくことを宣言する。
それが、神龍画家 川口緋呂の、生きる道だ。


立春を前に、少し背筋が伸びた。


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