見出し画像

「金毘羅」における日記とフィクション

大学生のころ書いた、森鴎外の短編「金毘羅」をめぐる文章をアップします。hとともに共同執筆したはずのものです。

==

はじめに
 
実際に起きたことを書きつけるとき、日記とフィクションは、はたしてどのような関係にあるのだろうか。
 フィクションはどのように書いても良いとされる。物語の都合を優先して、事実を様々に書き換えることができる。だが、自身に起きた出来事、例えば子どもの死という非常に大きな事柄をもとに書くとき、子どもの死んだ日や状況を、物語内部の都合にすべて従属させることはできないかもしれない。それは、ある種の抵抗感である。何かを書くとき、そのような抵抗は様々なところで書き手に感じられ、テクストの中に、作者の思考として表れてしまう。
「金毘羅」は森鷗外による短編小説である。小野博士という心理学者の子ども二人が、百日咳にかかり、結果、息子の半子が死に、娘の百合だけが快方へ向かうという物語である。
 そこに書かれている日付を鷗外の明治四十一年の日記と照らし合わせると、実際に娘と息子が病に倒れていることがわかる。では、この小説は鷗外の実体験に基づいたものなのだろうか。たしかに、小説の中心人物である小野博士は、小説の書き手である森鷗外を強くイメージさせる(子どもへの命名の仕方など)。だが、さらに細かく見ていくと、すべてが日記のままではなく、小説を書く上で、日付を変更している箇所がいくつか見受けられる。それら恣意的な変更には、金毘羅の縁日の日付、すなわち「十日」が関わっていると考えられる。
 本稿ではこの日付の変更に注目し、「金毘羅」という小説を、鴎外がそれを書くなかでいかなる思考を行ったのか、ということに着目しつつ、分析する。


1 日付
 まず「金毘羅」の中の出来事の日付と、「明治四十一年日記」の中の出来事の日付を、ひとつひとつ照らし合せていってみよう。

 第一に言えるのは、出来事の生じる順番が同じであるということだ。
「金毘羅」と日記は、ともに①琴平を出る→②家につく→③半子(不律)が咳をしていることを知らされる→④半子が死ぬ→⑤百合(茉莉)が元気になる、という順序で事態が推移している。
 次に、出来事の順序が同じであるにもかかわらず、その生じた日付が、わずかにずらされていることがわかる。変更されているのは、小野博士(鴎外)が琴平を出た日付と、半子(不律)が咳を始めた日付だ。日記では、前者が六日、後者が八日とされているが、「金毘羅」では、ともに十日とされている。
 小説にあえて日付を細かく書き込んでいること、ならびにその日付が(出来事の順序は一致させられているにもかかわらず)変更されているということから、私たちは小説の書き手としての鴎外の恣意的な操作を見出すことができるだろう。
 では、その恣意的な操作は、何に基づいてなされているのだろうか。
 ここで私たちは、日記に書き込まれておらず、小説には書き込まれている大きな出来事・イメージとして、金毘羅の存在に思い至ることになる。


2 金毘羅と十日
「金毘羅」において、講演のために琴平を訪れた小野博士は、宿において、講演の企画者である小川光から、金毘羅に参ることを勧められる。

「まだお食事までには大分時間がございますが今日は丁度土地のものが沢山参詣をいたす日でございますから、先生も御参詣なさってはいかがでございましょう。」

 これに対し、小野博士は、琴平に宿泊することも、また金毘羅に参ることもなく、駒込の家に帰ってしまう。家に着くと、昨日(十日)から息子の体調がすぐれないことを知らされる。
 さらに妻は、息子が咳をしはじめたちょうど十日の晩に、まるで子どもたちの病を予言していたかのような夢を見たと、後に小野博士に告白する。その夢では、子どもたちが水に溺れてしまう。息子が死に、娘は助かる。
 小野博士は、それを聞いて、自分が金毘羅に参らなかったという事実を連想してしまう。なぜなら、十日はちょうど自分が金毘羅に参らなかった日であるし、金毘羅は、水難のイメージと強く結びついているらしいからだ。さらに妻は、隣家の奥さんから虎ノ門の金毘羅で祈祷してもらった布を譲り受けている。あらゆる事態が、金毘羅を中心に動いているかのようだ。これらの不自然なまでの一致を、小野博士は自ら「今は小説にでもこんな事を書いたら、伏線が置いてあるに呆れるどころの騒ぎではない」と揶揄するが、しかし同時に、無意味なことだと切り捨ててしまうこともできない。どこかで金毘羅の祟りなのではないかと疑いつつも、最後には次のような文章で締められる。

「どんな名医にも見損うことはある。これに反して奥さんは、自分の夢の正夢であったのを、隣の高山博士の奥さんと話し合って、両家の奥ではいよいよ金毘羅様が信仰せられている。哲学者たる小野博士までが金毘羅様の信者にならねば好いが。」

 なにを信じ、なにを信じないか。なにがこの世界の事態を動かしている根拠なのか。「金毘羅」は、そのような問いが、子どもたちの病と金毘羅の祟りの間で、絶えることなく検討され続けていく小説として組み立てられている。
 そこで、十日である。「金毘羅」における十日は、次つぎ生じる出来事の中心に金毘羅を据え置くことに大きく寄与する日付だ。金毘羅の毎月の縁日であり、小野博士が金毘羅に参らなかった日であり、妻が予言的な夢を見た日であり、息子が死に到ることになる咳を始めた日であり、さらには娘が恢復しすべての騒動が終結する日でもある。
 だが、先に見たように、一月十日は、日記においては、小説内に生じる出来事とはなんら関係のない事態しか生じていない日である。いま一度、その日の日記の全文を引用しておこう。

「十日(金) 大阪に往き兵営を観る。夕に井上中将の饗宴あり。夜汽車にて帰途に就く。弟篤二郎耳科院に歿す。」

 日記からわかるように、十日は鴎外の弟が死去した日なのだ。それだけの大きな出来事が、「金毘羅」ではまったく触れられていない。もちろん「金毘羅」は単なるフィクションであり、鴎外の実体験とは無関係に自律しているのだから、鴎外が事実を隠しているなどと指摘するわけではないし、弟の死が小説のなかで描かれていないことだけが重要性を持つわけではない。注目すべきは、鴎外が日記をもとに小説を執筆する上で、「十日」という日付が、奇妙な具体性を持ってしまったということだ。
 日記における十日は、弟が死去した日付であり、娘が恢復した日付である。その時点で、かすかな一致が見られることになる。小説を執筆するなかで、鴎外を模した登場人物が琴平を出る日付や息子が咳をはじめる日付が、それぞれ十日に変更された。そして、日記には書かれていない事態として、妻が予言的な夢を見るという出来事が、小説に十日の日付とともに書きつけられる。十日は、現実の体験が小説化される過程において、金毘羅と強く結びついていく。金毘羅の祟りの具現化と言ったほうが正確かもしれない。小説内の人々は、十日という日付に、単なる日付とは別の感覚(様々なところでの一致による不吉な感覚)を感じざるを得ない。すべての出来事がそこを中心にまわっているかのような、ひとつの根拠としての金毘羅が、十日という日付を媒体として現れるのである。
 それと同時に、本来一月十日に生じていたはずの、鴎外の弟の死は、小説には見当たらない。もしくは、金毘羅の祟りそのものになる。日記の時点で生じていた日付の一致(一月十日と三月十日というふたつの日に共通する生死のにおい)が、金毘羅の縁日の日付と結合し、「金毘羅」という小説全体を貫く「金毘羅の祟り」を生み出したのなら、弟の死は、まさに金毘羅そのものの実在感(直接には知覚できないが、この世界の法則として信じざるをえない対象に対して感じる手触りのようなもの)として、この小説に確かに書き込まれているとも言える。


3 必然と偶然
 こうして見ていったとき、私たちは、森鴎外という人物が、自らの苦痛を伴った経験を小説として書き記す過程において、ある二重の状態を自らの中に作り上げていく姿を捉えることができるだろう。すなわち、自らの苦しい経験を、単なる偶然ではなくひとつの筋道の通った必然的な出来事として回収しうる金毘羅の実在感、ならびにそのような超越的な存在に対する疑いの念という、二重の状態である。
 鴎外は、日記に書かれている出来事の時点では、明確ではなかった超越的な法則を、小説の執筆過程において、明確化していっている。一方では事実をもとに小説を書きながら、一方ではそこに虚構を織り交ぜていく。そのときの虚実の織り交ぜ方の根拠となるのが、偶然を必然へと変換する、金毘羅の祟りの存在だった。
 息子が死に、娘が生き残ったとき、周囲の人々は「あなたは不運だった」と言うだろう。あるいは科学的視点を重視する医者なら、いくつかの原因を並べて「ゆえに必然だったのだ」と言うかもしれない。確かに彼らの言う通りだ。しかし、子どもたちの一方を失い、一方を助けられた親からすれば、子どもたちの死と生は、とりかえしのつかない偶然とでも呼びうるような、矛盾した状態として捉えられることになる。客観的に見れば、病に倒れて死に至る子どもはこの世界に常に一定数いる。それがAさんの家の子どもであるか、Bさんの家の子どもであるかは、関係ない。ただ死に到るような病が存在しているということだけが、安全な地点からの観測によって、偶然として、確かめられる。けれども当事者の親は、そのような客観的な観測地点に身を置いてはいない。自らの子どもが死ぬということを、反復的に観測することは許されない。たった一度の偶然で、子どもが死ねば、それが逃れがたい必然となる。その必然は、科学的な見地から見た客観的必然性ではない。極めて個人的・当事者的であるがゆえの必然性である。その意味で、この必然性は、「わたしがわたしであること」に近い。なぜ、わたしだったのか。それが問題なのだ。内側から見た死は、常に必然と偶然を同時に含んでいる。
「金毘羅の祟り」というイメージは、内側から見た死の持つ偶然性を、一種超越的な必然性へと反転させる機能を持つ。しかしそのような強固な必然性は、現実に生じるさまざまな事態の細部を取りこぼすことによってのみ成立する。「金毘羅の祟り」という超越的法則から逸脱する事柄が、この世界には細かく生じているはずなのだ。事実、鴎外の日記の時点では、金毘羅の「十日」は、そこまで強い必然性を持っていない。それが、小説として書きなおされる過程で、必然性を帯びる。同時に、「金毘羅の祟り」のような、超越的法則への疑義も常に意識される。鴎外は「金毘羅」という小説において、自らの体験の抱えている小さな二重性を、極めて大きなかたちで描き直す・想起しなおすことによって、必然と偶然の往復をより過激に行っている。すなわち、小野博士と鴎外が似ているのは、読者を楽しませるためなどではなく、書き手である鴎外が、自らを記憶を媒介にして思考を行うために、必然であったはずなのだ。鴎外は自らに似た登場人物を中心におき、自分の体験をなるべく忠実に再現した小説を書くことによって、「なぜこのような事態が自分の身に起こってしまったのか」という、偶然性と必然性の二重化した問いに対する、制作的な思索を行っている。


4 小説執筆者の思考における「幻想」
 以上のように考えたとき、鴎外が小説の執筆を通して思考した、偶然と必然の二重化した事態は、例えばツヴェタン・トドロフが『幻想文学論序説』において定義した「幻想」と呼ばれるフィクションに生じる現象と、構造的に類似してくる。つまり、「金毘羅」という小説を、書き手の思考が「幻想」的に駆動するために執筆されたテクストとして捉える可能性が、垣間見える。

「われわれのよく知っている世界、そこで、ある出来事が起こる。ところがそれは、馴れ親しんだこの世界の法則では説明がつかない。そうした出来事に遭遇した者は、考えられる二つの解釈のいずれかを選ぶほかないだろう。すべてを五感の幻覚、想像力の産物とするか。それならこの世界の法則は手つかずに残る。あるいは、出来事は本当に起こったのであって、現実の一部をなしていると考えるか。そうなると、この現実はわれわれの知らない法則で支配されていることになる。〔…〕「幻想」は、こうした不確定の時間を占めている。どちらか答えが選択されてしまえば、幻想を離れて「怪奇」あるいは「驚異」という隣接のジャンルへ入り込むことになる。幻想とは、自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである。」

「わたしがわたしであること」「わたしの息子が死に娘が生き残ること」は、「馴れ親しんだこの世界の法則では説明がつかない」がゆえに、「ためらい」を生じさせる。すなわち、内側から見た死とは、「幻想」である。そして、そのような「幻想」は、ある事態に直面した私の内部において、現実と想像(錯覚)が確定されない状態を指すという意味で、宙吊り的である。その宙吊りは、あいまいさを意味しない。「金毘羅」において明確なのは、そのような宙吊りが、現実の体験を極端に象徴化した結果、獲得されるということである。
 十日という日付、金毘羅の祟り、それらが恣意的に操作され、象徴的な役割を担わされたとき、私たちはあいまいさと真逆の認識に触れることになる。そこでは体験の一つ一つがくっきりとした輪郭を持ち、相互につながりあい、世界の法則をつくりあげようとうごめく。そのうごめきは、そのまま小説執筆の原動力となるだろうが、宙吊りとなるのは、そのうごめきにおいてではない。うごめきが、いくつもの層を成しつづけることにおいてだ。
 うごめきがひとつに統合されたとき、世界の十全なる法則は達成され、すべてが平和となるだろう。それは、あらゆる事態が金毘羅によって司られるような世界である。そのような世界は、わたしの中にある「馴れ親しんだこの世界の法則」と、わたしの感知していない部分の世界の法則とが、ぴたりと一致してしまうことに由来する。つまり、金毘羅の持つ超越的法則・必然性は、この世界の外部にありながら、わたしの内側を条件とするものである。
 そして、小説の言葉たちが作り出す「意味のうごめき」も、この世界の外部にありながら、わたしの内側を条件とする。異なるのは、小説が、金毘羅のようには絶対的な統一性を確保しえないことである。というのも、小説には、書き手が(実際にいるかどうかは別の位相で)存在するからだ。
 小説の書き手。それは、語り手とは別に、この小説を作り上げた存在として、読み手にも、そして書き手自身にも、想像されるものである。そしてそれは、常に単一の存在でありながら、複数の層を抱えている。小説は一瞬で書きうるものではない。つまり、小説を構成する言葉たちは、いくつもの時間に破砕された書き手によって組み立てられながら、同時にひとつの「書き手」という像を作り出している。そこには、言葉たちが互いに意味のネットワークを作り、ひとつの現実を作り上げていくという、象徴化を経由した統合の動きと類似した構造が見られる。そしてそのような統合は、読み手や書き手といった区分を超えた「わたしがわたしであること」の位相において働く。わたしの内側の法則と、言葉たちの作りだす法則が、ぴたりと一致しようとすること。
 しかし、一致しえない。それが、死に関する限り。なぜなら、死は、もはや取り戻しようのない、書き直せない一点として書き手において機能するからだ。鴎外が、あれだけ十日を強調させようと小説を書き進めているなかで、息子の死の日付に関しては、日記通りであったということを、思い出そう。わたしの息子が死んだことは、偶然ではあるかも知れないが、しかし今現在においてから見れば――そしてわたしから見れば――必然である。「わたしの息子が二月五日に死んだこと」は、「わたしがわたしであること」に絡みつきつつ、ひどい宙吊りを引き起こす。それも、極めて事実が明晰な状態で。息子の死に、なんのあいまいさも認められないからこその、そしてそれをフィクションのなかで書き直し得ないからこその、ためらい。問題は、そのような苦痛にまみれた取り返しのつかない事実がこの世界において存在することではなく、それに接するわたしが内部に抱える、偶然性と必然性の二重化したためらいが、テクストと書き手のあいだにおいて表されうること――あるいは読み手がそのようなわたしの内部をテクストからフィクショナルに構成できること――にこそある。


5 結論
 鴎外は、自らに降りかかった事態を小説化する。その際、様々な要素を「金毘羅の祟り」のもとに書き直し、整序していく。出来事がある法則のもとで統合されていく。
 しかし一方で、わたしの内部に穿たれた息子の死だけは、いびつに発達させられ世界を統御する「金毘羅の祟り」のイメージと拮抗する。小説は、自らの書き手が直面したという息子の死を回路にして、「わたしがわたしであること」を自身に流入させ、それをめぐるためらい=幻想状態と共犯関係を結ぶことになる。そこで小説にそなわる宙吊りの感覚は、あいまいさとは異なる。個々の出来事ないしは言葉の意味の不確定さなどにではなく、あくまで確定に向かう個々のうごめきが過剰に重なり合うことにこそ由来する。
 ためらいを備えた小説は、そこから読み取られるところの書き手の思考とともに、安定しないまま深く歩を進めていく。おそらくは、実際の書き手=森鴎外がこの世から消えた後も、読み手を媒介にして。それは小説を書くという行為にともなう思考を、自他により最大限に引き出すためのプロセスであり、またテクストがそのような制作における思考を質としてあらわすためのプロセスでもあり、小説・文学を超えた領域にも強く共鳴する質を備えた「幻想」と関わるだろう。


参考文献
森鷗外「金毘羅」『舞姫 ヰタ・セクスアリス 森鷗外全集Ⅰ』ちくま文庫 1995
森鷗外「明治四十一年日記」『鷗外全集 第三十五巻』岩波書店 1975
ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』三好郁朗 訳 東京創元社 1999

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?