DIY施工の在り方とその意義にまつわるnote
気になる記事があったので、個人的に思うことをとりとめもなく述べる、自分自身の反省も込めて。
ことの発端は下記の発言。
DIYとかが大っ嫌いなんですけど、わかります?
お金が払えないということはそれはもう分不相応なんだから諦めろよ、欲しけりゃ経済まわせよ、そんでプロに集約した方が効率も技術もあがるだろ、と思うんですけど、
なんなんですかね、このみんなで作るもの賛美。
私のDIYという単語の選択が悪かったので創作趣味を否定したことになってしまってますが、
(時に施主本人以外の手を借りたりする)自主施工と、その拙さを、
技術者に対価を払って施工するものより価値があるとする方への苛立ちです。
責任の発生しない趣味について、同じ土俵で比べるべきではありません
完成されたモノよりも、ストーリーが重要視されてしまう風潮を感じることがある。
「地域住民と共に創り続ける」「参加型ワークショップ」などという言葉にはブラックボックス化されていないどこか温かみとか優しさを感じる。
今手元にある本にもちょうど「建築とは、つくる「モノ」ではなくて「物語」なのだ。ただカタチが良ければ良いというだけではなく、作る過程に色んなドラマがあることが重要。」と書いてある。
僕は高校生の時から建築家の「小難しいことをそれらしく話す」振舞いが大嫌いだった。言説だとかその過程での出来事ではなく、できた空間そのもので評価されるべきだと思っていたので、この騒動の発端となった発言の「プロの生み出した高クオリティなモノがないがしろにされ、DIY的にみんなでつくったモノが賛美されてしまう現状がおかしい」という論に対しては同意する。
一方でDIY的にまずは自分で手を動かしてつくるべきだとも思っている。
自分自身、稀に存在する「インパクトの使い方もわからないのに建築が何たるかを語る建築学生」に対して不信感を覚えているところがあるので、よい一層自分自身でつくるということに躍起になっているようなところもある。
だからDIYと言われる範疇のモノづくりだろうと自分の手を動かしているような人種が多分一番好きだ。
「自分で手を動かして、一定のクオリティのモノを完成させる」
これができれば苦労しないのだけど、誰しもはじめは素人で現実はなかなか難しい。
昔は何かつくろうと思ったら、「職人に弟子入りする」といった覚悟が求められたのかもしれないけれど、イメージ低下による担い手不足だったり、そもそもメイカーカルチャーの流れだったりで、モノをつくるということへのハードルが下がり続けている。
「体験」はとても素晴らしい機会だと思う。自分でつくることは他のなにものにも代えがたい。けれども「体験」があくまで「体験」にしかならず本職へのリスペクトなく「モノづくり」が消費されてしまいがちな現状は止めなくてはならないと思う。
責任なくつくることの危うさ
3年前、自分も出展していた「Tokyo Design Week 2016」にて学生が制作したモニュメントが発火し、子どもが亡くなるという事件があった。
当時の自分の日記を振り返ると以下のように書かれていた。
ものをつくるという意識について考えさせられた。
デザインなり建築なりを学ぶ人は、今自分がつくっているものは、単なる模型ではなく現実世界で実際に使われるモノだという意識を常日頃から持たねばいけなかったのではなかろうか。
実物と授業でつくるような模型は全然違う。
実物をつくるときは様々なことを考えないといけない。
木材同士を釘で固定したことがない人はきっと釘一本だけで固定したら木材が回転してしまい、固定されないということを想像できないかもしれない。
様々なことを考える代わりに得る知識、体験も多い。だからものをつくるのは楽しいのだと思う。
コルビジェなど歴史に名を連ねる建築家たちは、建築だけでなく家具のデザインもしていた。彼らが有名になりえた理由は実寸大のものを作るという行為を通じて、リアリティのあるものづくり、建築づくりを身体に染みこませていたからなんじゃないか?
たとえつくるものが模型だとしても、そこにはリアリティがないといけないと感じたし、それがなかったらそれはただの空想の産物。
とはいえ設計したものを模型ではなく実際につくるということは難しい、それは知識や技術にしても、機会にしても。だから古民家改修のワークショップなど、実際に自分の手で建築に触れる機会を通じて、積極的に実物を制作していかないといけないな、と思った。
3年経ち、ちょうど現在古民家DIY改修のプロジェクトに関わっているけれど、実物をつくっている意識だけでは不十分なのかもしれない。
そう思ったのは、先日学会でそのプロジェクトについての発表を行った際に受けた一つの指摘がきっかけだ。
「モノが簡単に作れる時代になってしまった。何も知らない素人が古くから残る伝統的な建築物を不用意に手を加えてしまっていいのだろうか。安易に手を加えてしまうことで、元の空間がもつ良さが消えてしまう恐れがあることを考えなかったのか」
そのプロジェクトでは、僕ら院生が設計をする傍ら、学部生に授業の一環として、施工方法を教えながら古民家改修に参加してもらう活動となっている。
しかし彼らの体験としての価値を追求するあまり、手を加えてはならないところまで加えてしまっているのではないかという警鐘がひどく心に刺さった。
「そうか。実物をつくっているという意識」だけではもしかしたら、何かをつくってそれに関わった人だけが楽しめたらOKというような短絡的なモノづくりになってしまう可能性を秘めているかもしれない、と思った。
そういえば今関わらせてもらっている設計事務所の大工さん(左官から造作家具から内装に関わる施工を一通りできるすごい人)が言っていた、自分のやっていることは他の人の仕事を奪っていると。
今現在自分が行っている「モノづくり」は現在この瞬間だけではなく、今後何年も残る。そこに訪れた人々のことを考えることは当然として、そのモノと直接的には関わらなくても同じような業界にいる人々全体に影響を与えるかもしれないということを感じた。
いかにDIYをすべきか
上記の記事以外にも「いかにDIYするか/しないか」に揺さぶられることが最近多かった(市民による古民家自主DIYは用途変更だとかグレーな部分も多いという話を最近不動産の方から聞いた。)
特に自分がオーガナイザーとなって誰かにモノづくり体験を提供する場合、自分が提供した体験がその人の「モノづくり」に対するハードルを悪い意味で下げてしまうことにもつながる。
下げられたハードルを真に受けて、モノをつくられてしまった時、誰が発端の原因ともわからない宙ぶらりんの責任が施工者に降りかかってくる恐れがあるだろう。
今自分達で行っている古民家改修にしても、大工さんの監修が時々あるとは言え、施工は基本的に大して施工経験もない学生。
改修が終わり、地域住民や後世の学生が完成した空間に訪れた際に不具合を感じたら、誰の責任となるのだろうと考える。
社会と関わり合う活動である以上一定の責任をもつ必要があるとはいえ、施工を行う学部生はあくまで体験のつもりでやっている。職人と同レベルの技術・責任を求めるのはあまりに酷である。
施工のプロとして監修していただいている大工さんにしても、責任をもつ義理などないだろうし、もししてもらうなら支払っているコストが少なすぎる。
では設計・監修を行う僕たちは、そこまでの責任を背負えるほどの覚悟を持ちながら活動を行っているか。彼らのつくるモノの品質に対してのみなら「YES」と答えられても、彼らの「モノづくり」に対する意識を正しい方向に導いてきたのか、と問われると胸を張って「YES」とは言えない。
DIYには確実に意味がある。
自分でやってみることで職人のもつ技術の高さを実感できるし、以降のモノを見る感度が変わる。上記のプロジェクトでも、自分自身の経験はもちろん参加した学部生のコメントを見てもそれは確信できる。
ただ今自分が持っている技術がどの程度なのか、そして行っている活動がどのような立場に位置しているのかを常に把握しておかないと、結局その後業界全体の流れをどんどんと悪化させていくだけなのだろう。
知らぬ間に自分がDIYの尊さみたいなものにどっぷり浸かって賛美しすぎていたことに気付かされた。
「DIY (Do It Yourself)」は段々と「DIT (Do It Together)」に移行しているらしい。オープンデザインリソースが発達し、様々なDIY手法が共有され、同士が集まりやすくなってDIYの規模が大きくなっていけばいくほど、この記事で述べられていたような危険性は大きくなっていくのだと思う。
当たり前のことしか言えないけれども、実態のある「モノ」をつくる人間として、このことは常に向き合い続けなければいけないのだなと思う。
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