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子供の頃はわからなかったこと

 僕が小学低学年の頃だから昭和45、6、7年ぐらいのことだろう。
 そのころ父の同世代の大人達が集まると、必ず話題は「どれほど貧しい食事に耐えたか自慢」になった。じゃがいもとか人参はただかじるだけでもご馳走で、具のない味噌汁、道端で採ってきた草と根っこの水煮は定番、特にみじん切りの大根を混ぜて炊いたご飯は、その場にいた大人達全員が「遠くから見ると白米そっくりだけど、あれは本当に不味かった」と感慨深げに苦笑いしながら頷きあっていたのを覚えている。
 そして話題は「あのころ何を食べたかったか」に移る。肉まん、ラーメン、とんかつ、カレーライスが上がる中、僕の父は「死ぬ前に一度たっぷりのあんこが掛かった団子を食べたいとそればかり考えていた。」が決まり文句だった。
 そしてこの話題の終わりは、決まって当時の僕への「いい時代に生まれて良かったな」という言葉と笑顔で締めくくられるのだ。

 真珠湾攻撃が行われた年、父は15歳だった。するとまもなく当時住んでいた青森県から東京都下の軍事工場に動員された。父の同世代は大体似たような体験をしている。貧しい食事自慢のネタ元の大半はその動員先の体験談だ。その時の大人達から受けた軍隊式のハラスメント(気合いを入れると称してただ殴られるだけ)や空襲の際の命からがらの冒険談も話題になる時があるが、不味い食事の話が9割だ。察するに「比較して今の幸福を実感できる過去の不幸」としてあの世代の共有可能な代表事例だったのだろう。無論その当時の僕にはそんなことはわからなかった。毎回同じような話をなぜくり返すのか?それが不思議だった。

 でも、あの戦争が正しかったというネトウヨ的な言説を僕が受け入れられなかったのは、やはりこの父親達の世代の貧しい食べ物の思い出話を聞かされたことが大きい。毎回似たような話には辟易したけれど、間違った時代の苦しさとそれが過去のものとなった安堵感に嘘はなかった、と思えたからだ。

 さらに今、自分が当時の父親の年を超え自分の子供が動員された時の父の年齢になると、父親達世代の体験したことの異様さをもっと深いところで感じている。子供達を飢えさせ働かせてまで、当時の大人達は何をしようとしていたのか。たとえば半藤一利の「日本のいちばん長い日」を読むと、主たる都市を爆撃で破壊され原爆を落とされても戦争を継続しようとクーデターを計画する軍幹部がいたこと、当時の政府幹部が第一に考えてたことが国民ことより天皇の立場の保全だったことにはただ驚くばかりだ。人それぞれの人格も命も軽んじられていた、そんな時代だったことには間違いない。

 映画「主戦場」やあいちトリエンナーレの少女像の問題であらわになった歴史修正主義とそれに同調する現代の風潮には、父親の世代が経験した異様な時代と同じ不気味さを感じている。その風潮が生まれた時代の変化とその理由を考えるこの頃である。

読んでいただきありがとうございます。ここでは超短編小説、エッセイ、読書感想などいろいろ書いていく予定です。よろしくお願いします。