日本史から見るマジック文化(前編)
マジックの歴史を紐解く
マジックとは何か?
それはシンプルでありながら、奥深い疑問であるかもしれない。日本語に訳せば「手品」や「奇術」であり、「魔術」「魔法」のことだ。
しかし直訳するとそうだとしても、その言葉ができた背景を想像すると、少しばかり異なる解釈もできる。
「手品/奇術」、「魔法/魔術」という意味の両者を区別しないのが英語の「magic」である。一方、「手品」という言葉は、「まるで魔法のようなもの」という意味はあっても「魔法」そのものではなく、タネ仕掛けがあるものとして両者は明確に区別がされている。
区別があるかないか、というのは、命名当時においての文化的認識の違いだと解釈することができ、このような部分に、歴史を紐解く醍醐味はあるのかもしれない。
この記事では、プロマジシャンであり、マジック史研究家でもある上口龍生氏に、マジックの歴史を解説していただいている。時代背景がわかりやすいように、特に江戸時代に栄えた日本独自のマジック文化である伝授本に焦点を絞って解説を進めていくことにする。
伝授本(でんじゅぼん)とは
手品のタネ明し本のことである。1696年(元禄9年)に京都で発行された神仙戯術(しんせんげじゅつ)が最も古く、それ以前のものはまだ発見されていない。この本以降、江戸時代に発行された伝授本は、再版改題本や一枚刷り伝授書も含めると約200種である。なかでも享保から寛政期にかけて発行された初期の伝授本は内容、装丁とも非常に優れている。それに比較して文化文政期から江戸末期までに発行された伝授本の内容は、ほとんどが初期の伝授本の孫引きである。よって大きく二期に分類される。第一期は元禄期から寛政期まで、第二期は文化文政期から江戸末期までとなる。さらにいえば現在では西洋奇術が入ってきた明治初期に刊行された江戸時代の装丁のままの本を含めて伝授本と呼ぶ。(河合勝/長野栄俊著『日本奇術文化史(東京堂出版2017)』第三部資料編より抜粋一部改)
上口龍生(かみぐちりゅうせい)
『マジック・オブ・ザ・イヤー』『ワールドマジックサミット・ジャパン』『なにわのマジックコンベンション』の3大大会で、同一年に3冠受賞し、あらゆるマジックに精通することからマスターマジシャンと呼ばれる。マジックバー・サプライズのオーナーマジシャン。
2020年5月31日放送の『世界の果てまでイッテQ!』、同年8月15、16日配信開始の『令和の虎』など、メディア露出も多い。
マジックの起源:江戸時代以前
マジックは、いつ頃から存在したのだろうか。
その歴史は古く、人類史とともにあったと言っても良いだろう。古代エジプトのパピルスや旧約聖書などに魔術師が登場することからも、それは理解できるはずだ。
マジックの語源は2000年以上も前、紀元前6世紀に誕生したゾロアスター教から来ていると考えられる。ゾロアスター教の司祭をマギと呼び、彼らが行った御業(みわざ)はマジと言われた。
マジックが日本に伝わってきたのは、奈良時代に、シルクロードを通ってやってきたのではないかと言われている。
それとは時代が前後するが、卑弥呼の鬼道(きどう)や、弘法大師の御業も、実はマジックだったのではないか、という考察もある。
「奇術」という言葉は7世紀からあり「みばけ」と読んだ。現代で言うところのイリュージョン(幻想)の意味だったようだ。
平安時代には、「手がしなやか」であることに由来し「てしな」という言葉が使われたが、これは手先や指先が器用なことを指していたようである。
また現代で言うジャグリング(曲芸)やお手玉のことを「品玉(しなだま)」と呼んでいたが、そのマジックとしての側面が強調され、「品玉をとる」という言葉が「手品をする」という意味にもなった。
室町時代頃にはマジックのことを放下(ほうか/ほうげ)とも呼び、京都の四条河原で放下師が演じていたという記録も散見されることから、この頃からエンターテイメントとしてのマジックが現れ始めたものと思われる。
もっとも、多種多様な考察はあるものの、はっきりとした証拠をもって事実だと認定することはとても難しい。
書物や文献によって、それがはっきりと示されるのは、江戸時代以降のことである。
マジックと歌舞伎の密接な関係:江戸時代前期
職業専門家としての放下師、つまり今で言うプロマジシャンが現れるようになったのは、江戸時代、三代将軍家光の時代と考えられる。戦乱の世が終わって平和な時代が訪れたあたりで、人々が娯楽を求め出し、そこから専門家が現れるようになったと考えることができる。
この時期の記録として、職業放下師の記述も残っているが、この頃はマジックと歌舞伎の明確な線引きがなかったようでもある。あるいは、とても密接な関わりを持っていた。
マジシャンでありながら歌舞伎役者である、逆に歌舞伎役者でありながらマジシャンでもあった者がいた。病弱だった四代将軍家綱を励ますために江戸城に呼ばれた放下師の都右近(みやこうこん)は、後に都座という歌舞伎座を創立したひとりであった。
また、江戸時代中期から歌舞伎の中に外連(けれん)や絡繰(からくり)が取り入れられていくが、これがマジック的手法であったことからも、密接な関係の裏付けが取れるだろう。
現在でも、歌舞伎の学術調査の専門家が、江戸時代のマジックを研究し、論文として発表している。
1690年(元禄3年)に出版された風俗辞典である人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)には、当時の放下師が、鼻の上に棒を立てて皿回しをしている様子が描かれている。
この絵を見る限り、放下師はマジックだけではなく、現代で言うストリートパフォーマー(大道芸人)と同じように、ジャグリングもダンスもマジックも、観客が楽しめることを何でもやっていたものだと思われる。
歌舞音曲だけではなく、様々な演芸と繋がっていたのが、マジックだったのである。
産業技術とマジックの繋がり:江戸時代前中期
江戸時代という時代は、技術の進歩が停滞した時期であるが、その理由としては1721年(亨保6年)に八代将軍吉宗が出した新規法度に起因すると言われている(諸説あり)。
この法度は “産業としての物作りや技術開発を禁止する”と解釈される。
もともと、日本は技術レベルの高い国でもあった。
16世紀にポルトガルから伝わった鉄砲をすぐに自分たちで作れるようになったり、ペリーが来航するよりはるか前、織田信長の時代には鉄甲船を作っていたりしたという歴史もある。しかし、そうした技術革新が禁止されてしまったのが、吉宗の時代のことと思われるのだ。
ただしこの法度では“見世物としての利用は認める”という逃げ道があった。そこで技術者たちは、仕方なくエンターテイメントへの利用を探索するようになったのだろう。
鉄砲を作っていた火薬職人は花火職人としての仕事をし、機械工学は茶運び人形などの絡繰(からくり)を作る方向へと進む、といった具合である。
このときの絡繰作りのひとつとして、本来上から下に流れるはずの水が、逆に下から上に上がるという水絡繰(みずからくり)が生まれている。これが後述する水芸(みずげい)の起源であると言われる。
さて、こうして絡繰のブームが巻き起こり、竹田近江(たけだおうみ)という絡繰師が絡繰人形の一大興行を行い、大ヒットさせた。
不思議な現象の答えを人々が知りたがるのは江戸時代から同じだったようで、そうすると、その絡繰の仕掛けを暴露する本が出始めるようになる。現代で言う、マジックのタネ明かし本のことである。
絡繰の不思議さのおかげもあってか、あるいは出版業が盛んになってきた時期もあってか、こうした暴露本もまた大ヒットした。
この暴露本により絡繰がより一層一般に広がり、これら暴露本がマジックの教本ともなるのだった。
科学知識としてのマジック:江戸時代中期
江戸時代中期になると、庶民にも科学が浸透して来る。
ものごとを探求する、究明するという思想が、つまりは科学であり、そういった科学的思想や文化が発展した江戸時代中期になると、プロの放下師が演じたマジックを自分たちもやってみたいと思う人々が現れるようになった。今で言うアマチュアマジシャンのことである。
酒席で接客する太鼓持ちたちもマジックを演じるほどブームになり、座敷でのマジック、今で言うテーブル及びサロンマジックが流行るようになった。
1696年(元禄9年)に出版された神仙戯術(しんせんげじゅつ)を皮切りに、マジックのタネ明かし本が次々と出版されるようになる。こうしたタネ明かし本のことを伝授本(でんじゅぼん)といった。
1764年(宝暦14年)には、伝授本の中でも最高峰の呼び声の高い放下筌(ほうかせん)が出版された。
この時代は、ターヘル・アナトミアを和訳した解体新書が刊行されたり(1774年)、俳諧から川柳が生まれたり(1765年頃)した時期である。
文化が発達し、西洋の知識を盛んに取り入れていた時期だとも言える。
放下筌は、単なるタネ明し本というよりは、庶民が求めた科学知識の教本であった。
江戸中期から明治初期までに200~300の伝授本が刊行されたと言われているが、純粋なマジックの本は1冊もなかった。生活の知恵や科学知識、まじないなどを集合させて、マジックの本として売られていたのである。
現代で言う手品の教本とは趣が異なり、世の中の不思議なものごとを解説する本であったのである。
たとえば、どうしてタヌキが人を化かすのか、妖怪である大入道はどうやって出現させるのか、そういった方法が解説されている。今の時代であれば、怪奇ミステリーや七不思議といったジャンルであるが、当時はそれも含めてマジックであった模様である。
したがって、祭りで見た妖怪やお化けはいったいどうやって出しているのか、と興味を持った庶民が、こういった本を買って読んだものと思われる。
また、放下筌は上中下の3部作となっていて、上巻はイラストのみで現象を伝え、中下巻では文章でタネ明かしが為されている。上巻を安く販売、または無料で配布して、中下巻を高く販売しようという江戸時代の出版ビジネスだったのである。
伝授本のほとんどが上下巻の2巻セットか上中下巻の3巻セットであり、この様なビジネススタイルが一般的に行われていたことがわかっている。
この放下筌には、金属の輪が繋がったり外れたりする金輪の曲(かなわのきょく)の記載がある。今で言うリンキングリングは、江戸時代中期にはすでに解説されていたことがわかる。また現在において、この解説が世界最古のものである。
こういったマジックは、古い時代に大陸から伝わって来たと見られ、たとえばポルトガルの宣教師などもマジックを伝来させたのではないか、という考察もある。
放下筌のイラストによると、男も女も、子供も老人も、侍も僧も町人も、みんなでマジックを見て楽しんでいる様子が描かれている。
士農工商という身分制度があった時代であるにも関わらず、これだけの人々を惹きつけた魅力的なエンターテイメントであったという証明になるだろう。
子供心に、どうして空は青いのか、どうして雨は降るのか、どうして虹は出るのか、誰しもがそのような疑問を持ったことがあるだろう。
おそらく江戸時代も同じだったはずで、その時代の大人が虹のできる理由を知るための方法が、こういったマジックの本であった。
マジックの本でプリズムの原理が解説され、虹ができる理由を庶民は知ったのである。つまり、江戸時代は、虹というのはマジックであり、イリュージョンであったのである。
後編に続く
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