見出し画像

学歴がいったい何の役に立つのか?

学歴は大事なのか

「学歴って大事?それとも大事じゃない?」
 そんな議論は古くからありますし、今なお活発な議論のひとつかもしれません。
「大卒という学歴を持っているだけで良かった時代は終わった」
 それは確かなことだと思いますが、だからといって大学に行かないほうが良いという話にもなりません。

 この記事は、進学に迷う学生読者の方に情報提供したり、学歴コンプレックスを持つ方の悩みを解消したりすることを目的として書かれています。

 さて、こういう話をするとき、
「では筆者はどういった学歴なのか?」
と聞かれそうなので、一応自己紹介を。
 筆者である廣木涼は九州大学の博士卒、というのが最終学歴で、それから旭化成に入社して研究職に従事した、というのが職歴です。その後退職してフリーランスマジシャンとして活動し、2019年にヒーローウッドエンタ-テイメント株式会社を設立し、今はその経営をしています。

 学生時代や、会社員時代、フリーランス時代の自分の経験もあれば、それぞれの時代で様々な学歴の人とやり取りをしてきましたが、結論から先に言うと、高い学歴を持っていたとしても、さほどの役には立ちません。
 ですので、もし学生の読者の方にアドバイスをするとすれば、
「やりたいことがなければ、大学に行くといい。やりたいことがあったら、それをやればいい」
ということになりますし、学歴コンプレックスの方に伝えることは、
「そんなコンプレックス、持つだけ無駄だ」
ということになります。

 では、それぞれの学歴について、詳しく説明していきましょう。


中卒・高卒

 正直に思うのは、高校を卒業するまでの間に、やりたいことを見つけてそれを実践できている人が、最高の勝ち組であると言ってよいと思います。
 人気ドラマ/人気コミックの『ドラゴン桜』では、
「バカとブスこそ東大へ行け!」
という尖ったセリフで話題になりましたが、
「何の才能もない普通の人だからこそ、せめて学歴ぐらいを肩書にしなければ、それ以外に名乗るものがない」
というような意味であると思われます。
 そうでない人、つまり学歴の肩書を得る必要のない才能ある人々、の例を挙げるならば、「大谷翔平」「藤井聡太」「小栗旬」「佐々木希」「明石家さんま」といった方々でしょう。彼ら彼女らは、中卒・高卒でありながら、「東大卒」の肩書よりもはるかに大きな名前を持っています。そのような有名人は、調べれば、他にもいくらでも出てくることでしょう。
 ですから、学歴というものは、
「そういった大きな名前を持てたら最高だが、そうでないならせめて会社名を、それもダメならせめて学歴を」
という程度の、保険の保険でしかないのです。

 ただ、そうは言っても、大学を知らない人たちは、大学に対して、憧れや奇妙な劣等感を持っているかもしれません。
 そして、その劣等感は、
「アナタ、大学に行ってたのに、そんなことも知らないの?」
というような台詞で出てくることもあるでしょう。
 未知の領域であるがゆえに、大学に行けば何でも知ることができて、何でもできるようになると思ってしまうのかもしれません。

 しかし安心してください。あるいは幻滅してください。
 大学に行ったからといってできるようになることなんて、ほとんどありません。
 そもそも、大学とは専門教育機関であって、一般教養を学ぶところではありませんから、一般的な、世の中の9割のことに関しては、高卒も大卒も同じ知識水準でしかないのです。
 ただ、ある特定の1割のことに詳しくなるために、大学という教育機関はあるのです。


大卒(学部卒)

 大学に行かずに高卒という学歴になったことで、コンプレックスを持っている人がいたとしたら、
「もし大学に行っていれば、こんなふうに悩まなかったのに」
と思うかもしれませんが、実はそのコンプレックスは、大学に行ったところで解消しません。高卒と大卒の間には、高専卒・短大卒という学歴も存在しますが、その学歴も同様でしょう。
 というのも、大卒というのは、世の中ではそう上位の学歴ではないからです。

 たとえば、大卒で就職活動をすれば、名のある大企業に就職するようなことも多いです。
 そこでは社員全員が大卒であり、自分が大卒であることが何のアドバンテージにもならない状況であったりもします。それどころか逆に、
「大卒は大卒なのだけど、僕はFラン大学で……」
といったことで悩まなければならなくなる人もいるでしょう。

 では、東大卒だったらばそういう悩みを持たずに済むかというと、そうとも限りません。
 なぜなら、大学の先には大学院という教育機関があり、大学院生から見たら大卒は低学歴であるからです。
 東大から就職するような職場では、大学院卒の社員も多いことでしょう。そういった「より高い学歴の人々」を前に、
「どうして日本で最も高いレベルの大学に行ったのに、低学歴の扱いを受けなければならないのか」
と嘆くような事情もあり得るのです。

 大学院に通う院生からすれば、大学4年生を卒業しても「学部卒」でしかありません。少し勉強しただけのヒヨっ子、という風に見えてしまいます。
 と同時に、学部卒から見た院卒は、やはり上位の学歴であり、そんな院卒ばかりの中で仕事をすることになる学部卒の人は、より強いコンプレックスを持つことにもなってしまうのです。
 僕も会社員時代に、
「私は学部しか出ていない学士でして……」
と、とても謙遜する大卒の先輩社員がいて、いろいろと考えさせられました。


修士卒

 大学4年を卒業すると「学士」という学位が授与されますが、それからさらに2年の研究を行うと「修士」の学位を授与されます。
 もちろん、修士課程(または博士前期課程ともいう)に進学するための試験に合格しなければなりません。早くても、24歳での卒業となります。

 ここまで来れば、相当なる高学歴と言えますから、学歴コンプレックスに無縁だろうと思われるかもしれませんが、それが、そうもいきません。
 なぜなら、修士は大学院の中でも前半でしかなく、その上に博士という学歴があるからです。
 修士がいるような大学(の研究室)では、博士も同時に存在するでしょうから、修士生は、常々その博士生の背中を見て育つことになりがちです。
 博士課程では、修士課程修了後さらに最短3年の研究を行い、博士論文をしたためることになります。
 つまり、博士3年は大学院5年生であり、それから見た修士1年は、小学5年生から見た小学1年生のようなものなのです。
 もちろん修士から見た博士も、その通りの位置関係に見えるはずです。

 そのような状況であるので、修士は、在学中から、自分が高学歴であるなどと思えなくなるでしょう。
 また就職しても同様に修士や博士ばかりの職場に行くことになる可能性も高く、やはり修士号という学位がアドバンテージにならない可能性も、ままあることです。
 ちなみに、僕が旭化成に入社した時の配属は、博士4人の研究チームでした。その4人の部下を持つ上司は修士でしたが、もしかしたらやりにくい思いをしていたのかもしれない、と今から振り返れば、そういう心当たりもあります。

 ところで、大卒の時点で、すでに特殊な1割のことにしか詳しくないのに、修士・博士ともなると、その1割の中のさらに1割ぐらいのことにしか詳しくなれません。つまり世の中の99%のことに対して、大して詳しくないのです。
 とても特殊な1%のことにだけ、100倍詳しくなる、という理解の方が現実に近いでしょう。どの1%に詳しくなるのか、というのは、所属する学部、学科、研究室によって違います。


博士卒

 飛び級などの特殊な状況が無ければ、博士号の取得は若くても27歳になります。
 ちなみに、自分自身や、周りの博士仲間を見るに、博士を取得するための資質は「賢いこと」や「成績優秀であること」ではありません。そういう人たちは、学士や修士で就職していったように思います。
 僕が思う博士取得のための資質は、「好奇心が旺盛な人」「最後までやり遂げなければ気が済まない人」「物事を追求するのが楽しい人」「結果に繋がっても繋がらなくても、日々コツコツと継続することができる人」といったものです。

 さて、博士課程進学とか、博士号取得というところまで来れば、学歴コンプリートと言えるわけで、もう何も恐れるものはなく、鼻高々でいられると、思いますよね?
 ところが、ここまで来ても、なお悩みは尽きないのです。

 まず、博士論文が認められること自体が簡単ではありません。
 30歳まで研究したけど研究結果が出ない、あまりに結果が出ずにメンタルを病んでしまう、そんな話はザラです。そこまで頑張ってきたのに30歳前にして中退、という人を僕はたくさん見てきました。
「修士でやめとけばよかった……」
というような、胸の痛くなる声を聞くこともありました。

 次に、就職がありません。
 それだけ狭き門を通過して博士号を取得したというのに、それが就職で報われることが、ほとんどないのです。
 大企業と言えど、博士の募集は、学士や修士の募集と比べて圧倒的に少なく、企業への就職の競争率はとても高いです。
 確かに給料は高く設定されていますが、だからこそ入社面接が厳しく、「ダメ元で採用」的なマグレ合格はあり得ません。即戦力でなければ許されませんから、面接官も大変厳しい目で審査します。
 博士中退で無職、博士卒で就職できずに無職、という人は、実は大変多いのです。

 それでいて、やっと就職が決まったとしても、職場の風当たりが強いこともあり得ます。
「さぞ優秀な博士様が来たと思ったら、社会のことを何も知らないんですね」
というような、高卒が大卒に対してする嫉妬の、高学歴バージョンで、修士からやっかまれます。
「博士なのに使えない」
というレッテルを貼られるのも早いです。
 入社数年後に、新しく入社してきた博士がそう陰口されるのを聞いて、肝の冷える思いをしたものです。

 学費の支払いも、とんでもない金額です。
 大学4年、修士2年、博士3年だとしても、9年間の学費と生活費が必要です。奨学金を借りるとなれば、ざっと2000万円の借金を背負うことにもなり得ます。
 高卒で就職すれば、たとえば平均300万円の年収で9年間勤めれば、27歳時点ではすでに2700万の収入を得ていることになり、その差額は実に4700万円となります。
 その上、高卒の場合は9年間の社会生活を送ってきている実績も付加され、27歳時点ではじめて社会に出て右も左もわからない状況の博士卒は、これからどうやって4700万円の差額を埋めていけばよいのか、と途方に暮れるようにもなるかもしれません。
 昔話『ねずみの嫁入り』のような笑い話ですが、なんと博士卒は、高卒を羨ましいと思うようにもなってしまうのです。
 僕は、博士に行って多くのものを得た経験を持ち、行ってよかったと心底思っている身でありますが、この学費の現実を知るからこそ、
「絶対進学したほうがいいよ!」
と、簡単に口にすることはできません。

 企業に就職せずに大学に残る、という選択肢はあります。
 そうすると、奨学金を返済しなくてよくなる、というメリットが生じる場合もありますが、学歴コンプリートしたことがまたしても何のアドバンテージにもならない職場が続きます。
 博士号取得していない人なんて、そこにはいないのです。学歴コンプが最低ラインです。
 その後ポスドク、助教、講師、准教授、教授、名誉教授と出世していかなければなりませんが、ポスドクは給料こそ高いけれどもアルバイトとそう変わりません。翌年になれば契約が終わって無職になってしまうのです。大学によっては、助教や講師も5年契約であったりして、5年後に無職になってしまう可能性を常にはらんでいます。
 そして、ポストが空かないことには出世はできません。教授が引退してはじめて、准教授が教授に上がり、助教が准教授に上がり、そしてポスドクが助教になれるチャンスが巡ってきますが、ポスドクの総数に比べると、空きポストの数が圧倒的に少ないのです。企業へ就職するよりも、倍率の高い狭き門となります。
 この部分は、ずいぶん前から問題視され、いまだ改善に至っていない闇の深い課題なのです。

 加えて、そこまで苦労して、様々な問題を抱えつつも学位を取得してきたのに見合わないほど、日本では博士の価値が低いのです。
 アメリカでPh.D.所持者だと言えば、それなりに社会的地位があるようですが、日本で博士号所持者だと言っても、「修士」や「大学院」との意味の違いもあまり理解されていないところですし、場合によっては大卒(学部卒)との区別をつけられないこともあります。
 学位を得ようと頑張るモチベーションには、到底ならないことでしょう。

 そのことと関係あることかもしれません。
 論文博士への理解が、なおのこと低いようです。
 大学で博士課程を経て博士号を取得すると甲ドクター(課程博士)、企業などで働きながら書いた論文が認められて取得すると乙ドクター(論文博士)、という区分があるのですが、論文博士を取得しておきながら、
「博士は博士なのですが、私は乙でして……」
と自信を持てずにいる人にも、何人にも会いました。

 このように、高学歴者には高学歴者なりの悩みがあり、別に自分の学歴を自慢に思ってもいないのに、しかしそのような悩みが一般人に理解されないことも博士たちは承知しています。
 ですから、「高学歴で鼻持ちならないヤツだ」と思われないように、自分の言動にとても気を使わなければならなくなるのです。
 それに加えて、先に就職した友人たちに、
「まだお勉強してるのか。早く仕事をして世の中に貢献しろよ」
というような嫌味を在学中に言われることも多いはずです。
 このようなストレスに耐え忍びながら、それでいて博士論文を書けるような結果も出せずにいることが長く続けば、メンタルを病んでしまうのも無理のないことかもしれません。
 これが高学歴者の実態なのです。


どこに学歴のゴールはあるのか

 さて、ここまで、それぞれの学歴を説明してきましたが、いかがでしたか?
 学歴を追うことがバカバカしいと思えてくるでしょう?
「こんなバカバカしいことにコンプレックスを感じてどうする?」
と言いたくなりますよね?
 いくら学歴を追い求めたところで、ゴールなんてものはないのです。先には先があり、上には上がいます。
 もしもゴールがあるとすれば、それは自分の心の中に存在するものです。外部に答えを求めても、誰も答えを知らないのです。

 だから、学歴なんてものを一切考えずに、メジャーリーグに行くことだけを目指して精進してきた「大谷翔平」が素晴らしく、あと少しで高卒の学歴が取れそうだとしても惜しむことなく中退して将棋に専念する「藤井聡太」が尊いのです。
 こういう偉人たちは、自分の心の中で、学歴のゴールを定めていることでしょう。

 もちろん、学歴があって成功している人たちもたくさんいます。
 しかしそういう事例を誤って解釈し、学歴と成功が紐づいているように錯覚してしまってはいけません。
 ほとんどの場合、その成功は、それぞれの成功者の個人的な能力に紐づいているのです。運や世の中の情勢、ということもあるでしょうが、そうだとしても学歴とは紐づきません。
 強いて言うなら、学歴を得るために積み重ねてきた努力や、その大学でなければ受けられない専門教育、同じ志を持った仲間たちとの出会いなどに紐づいている、と言うことはできます。

 ともかく、このように、どこにもゴールがない中で、どこを選んでどこを目指すのかを決めるのは、人それぞれです。
 学歴に合わせた能力を得る機会はありますし、学歴に応じて他人の目も変わってきますから、どこを選んだとしても正解も不正解もありません。また高学歴ほど、期待もされますが、ハードルも高くなります。
 ただ、はじめに言ったことを繰り返しますと、高い学歴があっても大して役には立ちません。役に立つのは、自分の能力です。スキルであり、経験であり、仲間であり、お金であり、頭脳であり、志です。
 肩書としての学歴は、寄与率として小さいのです。それもそうでしょう、保険の保険ですから。

 そんな中、「普通でいい」とか、「やりたいことも特にないし、自分では決められない」という人がいたら、はじめに言ったとおり、やはり大卒を目指すべきでしょう。やりたいことというのも、在学中に見つかるかもしれませんし、就職してから見つかる可能性もあります。
 もっと言うと「やりたいことが見つけられない仲間」がたくさん見つかります。

 ただ、修士や博士に進学する段階になれば、よくよく考えたほうが良いでしょう。専門職に1歩近づくことができる反面、一般職から10歩遠ざかることになるからです。
 その道は、様々な可能性が閉ざされ、後戻りできなくなる道なのです。
 しかし、様々な可能性を閉ざした先にこそ、自分ひとりだけの唯一無二の道があることを思えば、どこかの段階で、その決断をしなければならないはずです。
 それが修士進学の段階だとしても、特段早すぎることはないでしょう。高卒でプロ野球選手を選んだ人と比べれば、むしろ6年遅れであるぐらいです。


人はなぜ学歴を見るのか

 ちなみに、そもそも人々がなぜ学歴に注目するのかというと、その学歴を得る過程で学歴に見合う能力が身に付くからです。
 だから、学歴を見ただけで、
「それに見合ったスキルがあり、知識があり、仲間がいて、最後までやり遂げた経験を持っているに違いない」
という判断になるのです。
 学歴を得るにはお金がかかりますから、
「親の収入もそれなりにあって、安定した家庭に生まれたんだろう」
というような判断基準になることもあるでしょう。

 ただ、最近では受験の方法が多様化したり、奨学金の対象範囲が広がったりしているため、こういった判断基準と現実が一致しにくくなってきています。だから、学歴という肩書の価値が下がってきているのです。
「この人は本当に、学歴に見合った知識や能力があるのだろうか?」
と疑わなければならなくなるからです。

 しかし、このことは、本質的には大した問題ではありません。
 きちんとしたスキルや知識を得ていればよいだけの話です。
 世の中は、はじめからそういう人材を求めていたのです。そのための判断の尺度として、たまたま「学歴」を使っていたにすぎません。はじめから「学歴があれば他に何もいらない」などとは思っていなかったのです。
「学問に王道なし」
という言葉のとおり、きちんと学び、きちんと成長することができている人にとっては、何の問題もない状況と言えるでしょう。
 ですから、周りの目から見た「学歴」という尺度に惑わされることなく、自分がやりたい勉強をして、自分が得たいスキルを得てください。そして唯一無二の自分自身になってください。

 僕も「九大博士」や「旭化成社員」の肩書ではなく、唯一無二の「廣木涼」であれるように、努力を続けて行くつもりです。
 いつの日か、学歴や職歴と完全に無縁でいられる日が来ることを願って。


 こちらも併せてチェックしてみてください!



無料記事に価値を感じていただけた方からのサポートをお待ちしています。より良い情報をお伝えするために使わせていただきます!