はじめまして、ひろきぽです。#私の履歴書
はじめまして。
営業マンの傍ら、似顔絵師・イラストレーターとして活動しています、
「ひろきぽ」といいます。
普段はこんな絵を描いています↓
★ポートフォリオはこちらです
これははじめて僕を知ってくださった方のために、自己紹介代わりにお届けするnoteです。
これらを1本にまとめました。
はじめにお伝えしますが、この記事はちょっとだけ長いです。
一般的に、多くの人に読んでもらうには、どうやら2~3000字がいいみたいです。…が、自分と同じような境遇、悩み、価値観の人がいて、その人に何か1つでも刺さればいいなと思い、敢えて端折らずに全て書きました。
どうぞご覧ください。
❐現在(いま) - ひろきぽはこんな人
1996年3月生まれ。新潟出身。会社員。イラストレーター。福島大学行政政策学類卒。
父方の実家は「地場の鍛冶工場」、母方の実家は「左官屋」
そんな両家から職人魂や創作欲、そして両親から優しさ(自称)と人当たりの良さ(超自称)を受け継いで誕生。
【主な活動】
【趣味・嗜好】
(↑ひろきぽイメージ図)
❐過去(これまで) - 趣味から副業へ
【略歴】
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①小学生・中学生 -ただただ絵が好きな少年-
絵を描き始めたのは幼稚園。好きなゲームや漫画のキャラクターを真似して自由帳に描く。マリオのステージを絵に描いて、頭の中で動かす。漫画の主人公を自分に変えたパクリ作品をつくる。男子はみんなやってる。
小学2年か3年の時、メモ帳に鉛筆でオリジナル漫画を作成。しかも5巻まで出しているので、「独自の世界観」と「黙々とやる」のは当時から。
そして中学生。相変わらず絵は描いているものの、カードゲームや友達と遊ぶ等、他の遊びも充実していたため、正直「他の趣味より少し熱が入ってる」程度だった。
そんな中、中学では2つの強烈な出会いがあった。
1つは国民的バスケ漫画『スラムダンク』。中学生にして毎日21時に寝ていた優良生徒会長の自分が、これを読んだ日、初めて12時まで夜更かしをした。 熱い展開、目に焼き付いて離れない迫力ある絵の数々。
「こんな漫画描けたら面白そうだなぁ…」
もう1つは『Gペン』。漫画家が愛用する万年筆用のようなペンで、強弱のある線がかける。画材屋さんで買ってみたものの、尋常じゃないくらい扱いが難しい。でも「漫画家っぽいことやっている感」が楽しかった。
中学まで、自分にとって絵は「楽しい趣味」というシンプルなものだった。そして何より、自信満々に自分は絵が上手いと思っていた。
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②高校生⑴ -井の中のぽ、大海を知る‐
普通科の高校へ進学。同じクラスで元美術部のK君と友達になる。
美術の授業中、K君が机の上に何かラクガキをしていた。気になったのでふとそれを見た。
そこには、「絵を描いている僕(ひろきぽ)の横顔」が圧倒的な技量で描かれていた。その下書きなしのラクガキは、それまで見たどんな絵よりも上手かった。
瞬間、「自分、めちゃくちゃ絵上手いよぉ~!」と豪語していた自分に対して猛烈な羞恥心を感じた。その瞬間の出来事がトラウマになり、絵が描けなくなってしまった(K君とは3年まで仲良かった)。
(↑当時のイラスト)
一方、部活は山岳部へ入部。登山の際には、「計画書」という登山の日程や携帯食料をまとめた冊子を作っていた。入部1発目登山の計画の際、計画書の表紙にテキトウな絵を頼まれ、部のマスコットキャラクターを描いた。
その日の晩、同じく山岳部に入ったコーヘイ君(以下、コーヘイ)から、僕の描いた表紙のイラストを見て電話があった。
「俺、絵は描けないんだけど、小説というか話を作るのが好きで…俺が話考えるから絵を描いてくれない?」
聞いただけでワクワクした。
そこから2人で漫画を作り始めた。放課後の部活終わり、校庭のベンチ。コーヘイが大学ノートに文章や簡単な絵でストーリーを描いたものを持ってきて、2人でキャラクターや展開を考えたり、翌日僕が漫画にして持っていったり…
今思えば紛れもなくヘタクソな2人。でも2人で漫画をつくっている時間は夢中だった。そんな時間が、絵を描く「楽しさ」を思い出させてくれた。
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③高校生⑵ -マンガ制作。二人三脚の挑戦‐
2年に進学したタイミングで、お互いしっかりダメ出ししあって、真剣に漫画を1本完成させることにした。1ヶ月後、コーヘイは45ページのアクション漫画『プラ』のストーリーを完成させて持ってきた。
作画に取り掛かるが、全く思うようにいかない。慣れない画材、デッサン力の不足、背景も全て自分で描くという初めての経験。下書きは4度描き直した。夏休みを使っても終わらず、2年の2学期は毎日夜3時まで作画、日中の授業は6時間中3時間は寝るという生活。休みの日はコーヘイが家に来て丸1日ベタ塗り作業などを手伝ってくれた。
(↓書き直しの過程)
そして、5月にストーリーを渡された作品を描き終えたのは、その年の12月31日だった。
ようやく完成したまさに玉稿。しかし、改めて見返してみると、納得のいく仕上がりではなく、出版社には送らないことに。世にでることはなかった。
(↑『プラ』原稿)
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④高校生⑶ ‐進路選択。自分の実力のなさに泣き-
『プラ』完成以降、コーヘイとはストーリーやキャラづくりは続けていたが、ガッツリした作品作りは徐々に落ち着いた。また、それなりの進学校だったこともあり、3年に進学するといよいよ進路選択を避けられなかった。
それまで抱いていた絵の道。しかし、2年で1本漫画を描いてみたことで、あまりにも高い壁があることを痛感した。家計の都合で絵の専門学校は難しく、かといって今から国立美大を目指す技量はない。
その現実が受け入れがたく、進路面談では行く予定のない美大のパンフレットを持って「ココしかいかない」といって先生を困らせ、家族・祖父と夕ご飯を食べている最中には唐突に「勉強したくない」と泣きだす始末。(痛すぎィィ)
先生や祖父から「大学進学すれば自由に使える時間もあるから、趣味で続けたらどうだ」と言われた。そう言ってもらうことで、自分の実力のなさに蓋をした。
時々絵を描きながら受験勉強に励み、第一志望ではないが国立の福島大学に合格。コーヘイは都内の私立文系へ進学した。
高校生活。コーヘイのおかげで、漫画制作に熱くなり、1度描けなくなった絵の楽しさを思い出すことができた。しかし高校では形ある実績まではつくれなかった。そこで、3月卒業時に決めた。
「大学で漫画賞を獲って、自分の名前が載った雑誌をコーヘイに見せる!」
こうして二人三脚の漫画生活は第1部の幕を閉じ、個人戦が始まった。
(高3当時の絵:コーヘイとのキャラ作り資料)
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⑤大学生⑴ -理想と違った大学、鬱寸前だったあの冬-
大学進学。高校が自由な校風だったこともあり、思ったほどキャンパスライフは華やかに感じず。それでも、新たにできた友人や、またも入部した山岳部のメンバー、そして初めてのアルバイトとそこそこ楽しかった。
しかし、その年の冬。
などの事情が重なって病んでしまい、夜中4時までゲーム(やりたいと思ってやってない)をして、数時間寝てバイトに行き、またゲーム…という廃人生活を送るようになった。在学中に漫画賞を獲る目標も見失いかけていた。
(↑当時の絵:暗い雰囲気、不穏な感じが表れている)
※外に出て人と合うときは普通だが、家に帰って1人になったとたん強烈な無気力感に襲われていた。
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⑥大学生⑵ ‐いざ、漫画賞-
ー大学2〜3年ー
2年に進学したタイミングで、そんな状態から抜け出すことができた。「運動」で失っていた体力と気力を取り戻し、「読書」でモヤモヤした思考の整理ができたためだ。(この2つの重要性は今にも繋がる大きな学びになった)
体力気力を取り戻し、大学フル単位で通いながら週6バイトを入れ、空いている時間で絵を描いた。バイトで少しづつ貯金ができるようになってきたので、高校時代は手が出なかった「コピック」や「液タブ」などの画材を集めた。
アニメの原画集や漫画家のイラスト集を集めては模写を繰り返した。
(当時模写したのは、ONE PIECE、ジョジョ、ナルト、BLEACH、電脳コイル、攻殻機動隊、寺田克也…などなど)
バイト、勉強、絵、バイト、勉強、気分転換に登山、バイト、絵、絵、たまに友人と遊ぶ、絵、バイト… こんな1年だった。
(↑当時の模写)
また、絵が好きなバイト先の店長の誕プレに絵を描いたのがきっかけで、「カラー」イラストをバンバン描くようになった(高校はもっぱら白黒の漫画)。ゼミの友人の誕プレや、従兄弟の結婚式のウェルカムボードを描き、自分の絵で人に喜んでもらえることが嬉しかった。
(↑大学2年。まだコピックが買えてない頃は色鉛筆を使用。)
(↑バイト先の店長へ。 コピックを使用。)
(↑ニコニコ動画好きの親友への誕プレ。)
(↑ゼミの親友への誕プレ。 この辺からデジタル画材を使用)
(↑従兄弟の結婚式のウェルカムボード)
(↑3年生後期は、模写から徐々にオリジナルの絵作りにシフト。かなり濃い絵柄。)
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―大学4年―
絵は着実に成長していたが、肝心の漫画が作れてなく焦り始める。就活が終わってから卒業論文制作のピークになるまでの6〜9月が最後のチャンスだった。
いざ就活。地元新潟の民間企業から直感で1社選び、早々に内々定がもらえた。会社見学や面接のために3〜4回新潟へ帰っていたが、その行き帰りの高速バスでノートにストーリーをまとめ、主人公とヒロインのデザインを固め、5月末から作画に取り掛かった。
(↑紙ノートに書き殴った漫画の構成)
題材として珍しく、かつ緊迫した展開が作りやすいと感じた万引Gメンをテーマにし、人気ラーメンとかけて主人公を「Gメン・ジロー」とした。
1日12時間、とにかく描き続けた。当時、レッドブルの売上の3割はひろきぽと言われている。9月のはじめ、45ページの読み切りが完成し、当時『範馬刃牙』が好きだったこともあり週刊少年チャンピオンに応募した。
1ヶ月後、出版社からの電話。一番下の「期待賞」にギリギリ入賞した。自分で選んだ目標を、1人で成し遂げた「初めての経験」。本っっっっっっ当に嬉しかった。
すぐにコーヘイに連絡した。
この漫画賞受賞で、1ついい形でけじめがつけれたと思った。「漫画、やるだけやった。あとは社会人になって、趣味としてやっていこう!」
こうしてスッキリした状態で大学を卒業した。
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⑦社会人1年 -絵から少し離れ-
新潟へUターン就職。コーヘイは教員試験に受からなかったため、関東圏で1年臨時教員として務めながら翌年の教員試験の勉強をしていた。
漫画賞のこともあり、自己肯定感バク上がりの状態での就職。会社は県内屈指のホワイト企業、実家暮らしで飯に困らない生活、と社会人生活は順調だった。
福島の彼女と遠距離恋愛をしていた自分は、その彼女との将来に向けて、平日は仕事終わり筋トレ、休日はスキルアップのため資格勉強、毎週日曜日朝3時発で福島日帰りという生活を何の苦もなく送っていた(絵は、たまに時間ができた時に描いていた程度)。自分の中で、堅実な将来設計が描けていた。
しかし、その年の秋頃に彼女にフラれる(笑えばいいと思うよ)。
それから、(勝手にたてた)将来設計のため、という目的を失い、休日の資格勉強をはじめ、あらゆることが手につかなくなった。仕事以外の時間、次第に何をすればいいか分からなくなった。
絵でも描くかな~と思い、思い切ってipad proを購入。
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⑧社会人2年~3年(1) -コーヘイ、個展-
iPadを買って少しずつ絵を描くようになってきたものの、かつての「漫画賞」のように描く「目的」がないためパッとしない日々。現状に焦りを感じ、環境を変えようと1人暮らしを開始。同時期、1年越しに教員試験に受かったコーヘイが、大学院進学のため新潟へ戻ってくる。
引っ越し後、通勤時間が減った分自由時間が増えたり、アパート近くの良い理容室を先輩社員から紹介してもらったり…
が、現状は大きく変わらず。むしろ引っ越し代と家賃で貯金が5万をきりキツくなった。毎日心臓がキリキリした。
お金に余裕があれば精神的に変わるかなと思い、平日夜と休日にバイトをしてみた。前みたいに彼女ができれば変わるかなと思い、マッチングアプリもした。でも、どちらも煮え切らない時間の使い方をしている虚無感だけが残った。
この時、自分を救ったのはまたしても「読書」だった。
様々な本や動画で、「社会に出て働きながら別の分野で活躍する道」を知り、模索していった。学生の時は、「絵=その仕事に就けなければできない」と思っていたが、本業でなくても何かできるのでは…と少しずつ思い始めた。
「もう1度、絵で何かしたいな・・・」
-2019年7月14日-
この日、新潟に戻ってきていたコーヘイと久しぶりに会う。コーヘイとは大学時代も東京や福島で時々遊んでいたが、絵の話はほとんどしていなかった。教員試験の勉強あたりから、そういった活動からは徐々に手を引いているもんだと思っていた。
その日、飲みながら久しぶりに絵の話をした。「もう1度絵で何かしたいんだよね」
「全く同じことを考えてた」
コーヘイの返事は予期せぬものだった。
1冊の分厚いリングファイルを渡された。中身は、100ページ以上に及ぶ小説だった。もう創作活動はしていないと勝手に決めつけていたコーヘイは、臨時教員として勤めながら、教員試験の勉強をしつつ、小説も書き続けていた。
「高校時代みたいに、もう1度2人で何か作ろう」
やっと、1年半ぶりに、火がついた瞬間だった。
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そこからコーヘイはストーリーの案を作り出す。その間、自分はバイトもマッチングアプリもやめ、絵の練習をした。しかし、ただ練習練習では正直しんどい。
2ヶ月後の9月。先輩に紹介してもらい毎月通っていた理容室に行くと、普段車が泊められている屋内ガレージに、写真作品が飾られていた。それは小さな個展スペースになっていた。
店主のタカハシさんに聞くと、毎年4月と9月に、ギャラリーを開放して有志の作家さんに個展を開いてもらってるとのことだった。
「ちなみに来年の4月はまだ予定決まってないんだけど、やる?」
引っ越しによる環境の変化が、少し遅れて現れはじめていた。
(↑ギャラリーに感激。急な個展の誘いに胸躍るひろきぽ。)
そこからコーヘイとストーリーづくりをすすめる傍ら、展示作品づくりを0から始める。10月、11月、12月…年をまたいで1月、2月…平日は毎日仕事終わりにカフェに行って描き、休日は地元三条市のカフェに籠もって描き続けた。
開催予定だった2020年4月はコロナの関係で延期になってしまい、半年後の9月、はじめての個展『#ひろきぽラクガキ展』を開催した。
タカハシさんの強力なバックアップもあり、地元新聞やニュースでも取り上げて頂き、個人的に大成功に終わった。
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⑨社会人2年~3年(2) -朝渋とOboro-
個展は無事終了。だが、1年間ささげて個展を開いても、(当たり前だが)絵関係の職業に就けるわけでも、大金が手に入るわけでもなく、現実はさほど変わらない。加えて、1年間張り詰めていた糸が切れ、燃え尽き症候群に陥った。本業と絵とのバランスが取れなくなり、生活リズムも大きく崩れた。本業にも絵にもやる気のでない自分への自己嫌悪が日に日に増していった。
せっかくの個展が無駄になる…コーヘイとの作品作りもできなくなる…
立て直すために、2つの新しい環境に飛び込んだ。
1つは「朝渋」という朝活コミュニティ。そこが開催している短期集中の早起きプログラムに参加。今まで夜に詰め込んでいた絵の作業を朝に分散し、無理なく描き続けられる習慣を身に着けた。
もう1つは、フリーランス活動をしている地元有志のメンバーのコミュニティ「Oboro」。個展の準備をしている際、休日に通っていた三条市のカフェのオーナーが紹介してくれた。はじめは「有志のメンバーが自由に使えるシェアスペースがあるよ」と紹介されたぐらいだったが、そこに集まるメンバーと徐々に活動をしていくことに。本業、副業、バックボーンは様々ながら、近い価値観で語り合えるメンバーの存在に、居心地の良さと新しいことに挑戦する冒険心をもらった。
個展終了後、地に落ちたやる気が完全に回復した。
そして2020年が終わる頃、朝渋代表のこーじさんから、絵の依頼をうける。親戚や知り合い以外の人からは、初めての依頼だった
これをこーじさんがTwitterやFacebookに載せたところ、それを見てくださった人が依頼をくれた。同じ頃、9月の個展に来てくださった人が、絵を依頼してくれた。正直それまでは絵の依頼を受けることに抵抗があったが、こーじさんやOboro、そしてコーヘイの応援もあり、徐々にオーダーメイド作品の制作を進めていった。
一方、コーヘイとの作品作りはストーリーやキャラクターがほぼ完成していよいよ作画…という局面だったが、本業の傍らオーダーメイドの制作と並行してやっていくと完成まで2年近くかかることになり、惜しくも中断することになった。
(↑タイトルは『M・M・M(メカニック・メガ・メトロポリタン)』。歌とダンスが好きな主人公レンジ。話のテイストにあう絵柄を模索した。)
(↑2人でかなりこだわったキャラデザ。)
(↑メカやファッションの設定資料もしっかりと作成。完成させたかったな。この作品ではないが、近い将来、何かしらのカタチにしたい。)
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⑩社会人4年 -似顔絵レッスン、見えてきた道-
受注制作をはじめると、思いの外似顔絵の依頼が多かった。これまでで1番多くの人に喜んでもらえた絵も、亡くなったおじいちゃんの似顔絵だった。
(↑おじいちゃんが亡くなる少し前に、おばあちゃんから頼まれた似顔絵。遺影として使ってもらっている。)
描いてほしいと言ってくれる人がいて、しかも喜んでもらえるなら、もっと似顔絵を描いていきたい。
しかし、それまでは専ら漫画イラスト(フィクションの絵)を描いてきた自分は、「モデルのある絵」に苦手意識があった。似せつつ、自分風に描くことに苦戦した。下書きの段階で消しては描きを何度も繰り返し、たとえ似せられたとしても、膨大な時間がかかっていた。
「感覚ではなく、理屈で描けるようになりたい」
そう思い、似顔絵HANAオンラインスクール3ヶ月プロコースを受講した。先生は優しいが、課題の量は容赦ない。3ヶ月、依頼をこなしながら似顔絵を描き続けた。今までの自分の描き方を一旦封印し、スピードとシンプルな描き込みに特化して練習した。
結果、今まで1人描くのに10時間ちかくかかっていた似顔絵が、1人30分~60分で仕上げられるようになった。似顔絵の依頼も、前より少しずつ頂けるようになってきた。
コーヘイとの活動再開、個展、新たな環境を求めて入った朝渋とOboro、そして似顔絵レッスン…
色んな巡り合わせがあって、これまで「趣味」だった絵は、少しずつ誰かに喜んでもらえる「副業」へと変わっていった。
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❐未来(これから) - 副業から本業へ
そして、現在。
サラリーマンとして働きながら副業で絵を描いている自分の、次の目標ができた。
それは、絵を「本業」にすること。
今のまま副業という形で続けていく選択肢ももちろんあった。
正直かなり悩んだ。
でも、1度自分の気持に素直になって、本当にやりたいことをやってみよう。どうなるか分からないけど、波に乗ってみよう。そう思って決断した。
あ、自分は締め切りや約束がないと何もできないので、宣言の意味も込めて…
この記事を書いているのは2021年9月。
あと半年。2022の3月に、絵を本業にします。
まだ達成していない今言うのはおかしいけども、決断力も行動力もない自分がここまでこれたのは、紛れもなく周りの人のおかげ。
本当にありがとう。
どうなるか分からないけど、挑戦してみようと思います。
―絵を通じてやれたらいいな、と思うこと―
「絵が好きだから」それを仕事にしたい!
いたってシンプルな動機です。
もう1つ、強く思っていることがある。
絵を描く動機というより、むしろビジョン。願望。
それは、
絵を通じて1人でも多くの人のテンションを上げたい!!
僕は絵を描く際、「初見のインパクト」と「何度も見たくなる密度」を大事にしています。それは、何回でも、何年でもその絵を見てテンションを上げてほしいから。
借りてきた言葉のようで恐縮ですが、今はモノが溢れている時代。
しかも、まぁまぁ便利な物が。
500円あれば織田信長が食べてたものより確実に美味い飯が食える
1000円ちょっとで映画見放題
水質や治安の良さ、場所に限らずそこそこの暮らしができる
「便利」で満たされてます。
でも、大学~社会人あたりで感じました。
モノの豊かさと、心の豊かさは比例しないってこと。
この世から悩みや不安が尽きることはないですが、それ以上にワクワクしたり、熱い気持ちになったりすることはできるはず。でも、今の不安定なご時世、無条件に希望を持とうだなんて大っぴらなことも言えない。
だから、少しだけだけど、自分の回りの人だけでもテンションを上げたい。
そのために絵を描きたい。
正直、絵の道を志してからの「後付」のビジョンにはなりますが、そう思ってます。
音楽ライブ等々、観て感じてテンションが上がるものは数あれど、
・「一番手頃」で、
・「身近」で、
・「オンリーワン」の価値がある…
それが絵の魅力。
特に似顔絵は、とっつきにくいアートと比べて、「似てる!」「可愛い!」「ここ盛りすぎだろ~wでも最高!」みたいに抜群の分かりやすさがある。
「もらって嬉しい絵作りを通じて、世の中のテンションをあげたい」
まずは似顔絵のオーダーメイド制作を通じて、みんなをかっこよく、可愛く、魅力的に描くことで、1人でも多くの人をブチ上げられたらと思ってます。
半年後、良い報告ができますように。
それでは。
ひろきぽ
(2022年3月追記)
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