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【百科詩典】吉本ばなな『虹』『ハネムーン』

『ハネムーン』

【若くて生きている】

私のふとももや、私の髪の毛や、はだしの足、若くて生きているそういうものがうろうろするだけで、ほんの少しずつでも、なにかが戻ってくるかもしれない。
~よしもとばなな『ハネムーン』

『虹』

【日傘で顔はよく見えないが】

ああ 、うらやましいなあと私は思った 。そしてお母さんは日傘をさして真っ白い光にさらされながら 、大きなおなかで気だるそうにかがんだ 。その様子を見ていたら 「何があってもあそこでお母さんが見ていてくれる 」と思って遠くまで走っていった子供の時を生々しく思い出した 。日傘で顔はよく見えないが母は微笑んでいるに違いない 、と思うことができたあの独特な感じが鮮やかによみがえってきた 。子供の時にはよく感じた 、安心して集中しすぎるくらいして遊んでいる時
の 、色の濃いはちみつのようにとろりとした楽しい感じ 。

【手の感じ】

人の手の感じがこんなに嬉しいのは 、それは国籍を超えて 、それがおじいちゃんとおばあちゃんの手だからだった 。もう子も孫もさんざん抱いた 、しわになった大きな手だった 。

【きれいなもの】

いろいろなことがあったけれど 、またこういうきれいなものを見ている … …生きているかぎり 、また苦しいこともあるだろう 、でもまた必ずこういうものが目の前に現れてくるのだ 。必ず 。

【きれいなふくらはぎ】

黒い足 、白いエイ 。天高く響き渡るかもめの声 。寄せては返す透明な水 。遠くの空にははけでさっと描いたような白い雲が薄く広がり 、光は刻一刻と強くなっていた 。餌付けの女性はきれいな布でできたスカ ートをたくしあげ 、きれいなふくらはぎを見せながら 、水の中をゆっくりと歩いていた 。たまにまぶしそうに手をかざして青い空を見上げた 。これから私は水際を歩いてコテ ージまで戻り 、昨日買ってきたパンと缶詰をつかって 、ツナサンドを作るだろう 。完璧に予想がつき 、きっと実現する 、そんなありふれた未来がこれほど嬉しいということが不思議だった 。

【胸の底の水】

モ ーレアの入り江は 、紀州の激しい景色とは似ても似つかなかった 。それでもそのこぢんまりとしながらも雄大である様子が 、私の胸の底の水を静かに揺らした 。思い出のきらめきが立ち上ってきて 、もう少しで涙になるところだった 。

【お互いを好き】

お互いがお互いを好きだという安心感が 、私たちを覆っていた 。言葉も通じない生き物だというのに 、そのうきうきした感じに嘘はないのが不思議だった 。しっぽがふさふさと闇に躍り 、小さな鼻はあちこちをかぎまわっていた 。

【光】

私は何にでも時間がかかる 、とてもかかるのだ 。光はそんな私をこの地上の何ともわけへだてることもなく 、いつまでも待ってくれるような感じで暖かく照らしていた 。

【海鳴りの音】

水上コテ ージがおそろしいほど大きな海鳴りの音に包まれていても 、私は目を覚ましてはまた眠った 。吹き荒れる風の音が夜は部屋を揺らし 、海の気配は部屋に満ちあふれて永遠に朝は來ないように思えた 。その音の激しさは 、私にとって外界や過去と私を隔ててくれる優しい子守唄だった 。 

【人と人との関係】

人と人との間には幸福な形はめったにないと私はずっと前から思っていた 。幼い時から客商売にたずさわり 、いろいろな人の涙を見ては学んだことだった 。そこには行き違いと悲しみと静かな幸福だけが 、寄せては返す波のようにくりかえし現れるだけだ 。それでも人と人の関係にはたまに蜜のような瞬間がある 。子供の頃の遊びみたいに罪がなくて激しく 、永遠にその琥珀色に閉じこめられた 、強烈な甘みを持つ瞬間 。

【面白みと痛い気持ち】

私にとって 、面白みは必ず 、痛い気持ちと引きかえになっているような気がしていた 。世界につながるには幾千ものきっかけがある 。母が死んでひとりぼっちになった今 、よりいっそう 、それを増やしていきたかった 。それが私の生きている証のように思えた 。仕事を離れて家政婦もどきのアルバイトをしながらリハビリしていた私を 、本当の意味で立ち直らせてくれたのは 、東京の中にさえある小さな自然 、その家の犬や猫や 、庭の木々だった 。 

【生き方を選ぶ】

しかし全てが自分の持っているものなはずなのに 、その家の中で 、奥様が取り逃がしているものの膨大さに 、私はがく然としてしまった 。これは奥様だけの問題ではなく 、私もきっと生きているだけで 、想像もできないくらいたくさんのことを取り逃がしていて 、それが生き方を選ぶということなんだ 、と悟ったのだ 。そして 、家の中はこんなにも 、気持ち悪いほどの生命のドラマに満ちあふれていて 、全てがうるさいくらいに 、うねるように何かを発しているのに 、それに気づかないでいる自由さえも人間にはあるのだ 。 

【サラダ油の下の広告】

私の家はいつもぼろぼろですきま風が吹いていたし床はいつも砂っぽかったが 、母の手が触れた物は全て魔術のように母の面影を宿したものだった 。サラダ油の下にしいてある広告の紙さえ 、その折り方に母のたたずまいを感じさせた 。母が醤油を大瓶から小さい醤油差しに移し替える時の仕草や 、新聞を読む時の丸めた背中は祖母にそっくりだった 。そして祖母のそういう仕草は 、きっとそのまた母親の仕草とそっくりなのだろうと想像できた 。

【鳥の巣のように】

それは奥様の女性性の問題ではなかった 。そこに住んでいる家族が 「これからもずっと住んでいこう 」と思っているあのなれあった 、鳥の巣のように汚れてこんもりと暖かい 、すっかりだらりとした気楽なものが 、そこにはどうしても感じられなかった 。

【黒真珠】

そんなことでこんな美しいものを嫌いになってはいけないとばかりに 、私はまん丸ではない小さな黒真珠でできたピアスを買って 、鏡の前でさっそく耳につけた 。あとしばらくこの島にいて 、もっと黒く焼けたなら 、きっともっと私に似合うようになるだろう 。そう思ったら黒真珠の悪いイメ ージは私から解き放たれて 、蝶のようにひらひらと店を出ていって夜の中に消えていった 。

【蒸気】

心ゆくまでひとりで過ごそうと決めてきた旅だったので 、意外な成り行きで人が部屋にいることがとても嬉しかった 。自分以外の人がお湯を沸かす蒸気が部屋に満ちていくのも 、あたたかい感じがした 。

【豊かな沈黙】

ところがその沈黙は 、少しもいやな沈黙ではなかった 。空気の中に時間の粒がきらきらと光るのが見えるような 、そんなおいしい空気を思い切り吸い込んで肺の中が美しいものに満たされているような 、そういう味のする豊かな沈黙だった 。

【行き場のない欲望】

音楽は終わり 、雨音だけが車の中に入ってくるかのように響いていた 。彼はじっと黙って 、傷ついた心を抱え込んでいた 。まるでさかりのついた猫のように 、彼の全身から 、私に対するどうしようもない 、行き場のない欲望がにじみ出ていた 。苦しげに彼は沈黙していた 。

【手の中に小さな虫】

そのみじめな気持ちは彼の手の 、どんなに抵抗しようと全然止まろうとしない感触ですぐに消えていった 。私の下着の中に入ってきた彼の手の感じは 、まるで割れそうな卵をなでるように 、手の中に小さな虫を持ってそっと歩いている人のように優しく柔らかく 、何かとても大切に思い畏れるものに触る時の感じだったからだ 。このような切実な願いを断るような強さは誰にもないのだ 、と私はあきらめて突然体の力を抜いた 。そしてもう 、彼の下で働く人間でいることを 、その瞬間は 、とにかく全てやめることにした 。初めて敬語ではなく 、同じ歳の男の人に言うのと同じように 、こう言った 。 「わかった 、いいよ 、寝よう 。でもここはいや 。ここから出たい 。 」

【その坂道の光景】

空は遠くまで薄くきれいなピンク色で 、雲がレースのようにかかっていた 。もう淡い闇が今にも押し寄せてきそうな時刻だった 。あちこちの家でお母さんが夕餉の支度をしているような 、穏やかな時間帯だった 。肩を抱かれながら見たその坂道の光景を 、私は一生忘れないだろう 、と思った 。

【同じ気持ち】

「ここでレモン色の鮫を見ました 。おっしゃっていたとおりに 、すごく不思議な感じでした 。戻ったらすぐに店長に連絡し 、なるべく早くお店に復帰し 、今まで以上に働きます 。どうしても言えませんでしたが 、私も 、あの家で働くようになってからはずっと同じ気持ちでした 。同じことを見て 、共にがんばっていけたら 、と切に思っています 。もしまだ気持ちが変わっていらっしゃらなかったら 、嬉しく思います 。私は全てを受け入れます 。 」

【なにがどうでもいい】

私の目に涙がにじみ 、もうなにがどうでもいいのだと思った 。真実が将来を切り開くだろう 。