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楽園たち

 例えば、人生をかけて目指している山頂があるとするのなら、それは私にとってはおおよそ偽物です。登っているその動作こそが生き甲斐であり、てっぺんなどそもそもあってもなくても良いのです。しかし、なぜかよくそのことを忘れて、代わりに「生きる意味」「夢」などと書かれていそうな幻のゴールテープを生み出してしまいます。信用もしてしまうのです。すると幸せは、目の前をいとも簡単に通り過ぎていってしまいます。

 分かりやすいのが曲作りです。曲作りは基本的に完成をさせることが一つの目標になります。まず妥協はしたくないため、その曲にとっての「完璧」を自動的に目指し始めるわけですが、残念ながら、もうその時点で何かがおかしいのです。なぜなら完璧なんてものは、その瞬間の自分が作り出した仮設の天井に過ぎないからです。突き破ったところで、また新たな天井の建設が始まるだけです。それなのに毎回のように、その時点での限界を突き詰めることに必死になってしまいます。そして酷いときは、時間のコントロールを失い、生活が壊れていくのです。
 このような向き合い方だからこそ、作れるものもあります。ただ、そこに重きを置きすぎると、きっと代償としては釣り合わないほどに精神がやつれてしまうため、避ける方が賢明な判断なのでしょう。『孤独に花束』のときには、曲作りを”遊びのようなもの”と書きましたが、時にその緩さを大きく超えてしまいます。今回の曲は、そんな自分への戒めなのかもしれません。

 仮に紛れもない主観の”完璧”があったとしても、音楽のことが、音楽をする自分のことが本当に好きだというのなら、無理に苦しんでまで求める必要はないのでしょう。それは大切な人に完璧を求めないことと、同じことです。
 そう、完璧になることに生きる意味があるわけではないことは分かっているはずなのです。でも、なぜかよくそのことを忘れてしまいます。その不完全さくらいは、完璧になってくれよと願うばかりです。

[歌詞]

鮮度が落ちていそうで
幸せを並べれば
オーロラはカーテン
蕩けた半生
感動は
長けりゃ心を失うとか

ブレーカー
手を差し出して
揺れて
ここは匣になって
血相を変えて軈て飛び立つ
楽園は向かいたい
デコイ
が設えていく階段に
見惚れながら落ちて
抽象像の角に下り立つ
楽園は向かいたい

辿り着く場所はいつだって
座標でしかなくなる
リュックでは明日が
茹だっている

すやすや光るエレキ
押し寄せる人波に
航路は明後日
汚れたカーペット
愛情は
溢れりゃ四季すら失うとか

ブレーカー
手を差し出して
揺れて
ここは匣になって
血相を変えて軈て飛び立つ
楽園は向かいたい
デコイ
が設えていく階段に
見惚れながら落ちて
抽象像の角に下り立つ
楽園は向かいたい

夢の上で生まれたベイビーは
夢と家族のように生きていく
そして巣立っていく
幻じゃないのにどうして
幻のように消えていく
窮屈な気持ち
茹だっている
茹だっている

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