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オムレツについて語るとき、僕の語ること。

自分について語ることが苦手です。


自分はどんな人物か、自分とは何かについて語ろうとすると、話は往々にして筋を見失い、坂道を転がるラグビーボールのように思わぬ方向へ向かい、自分でも何を言っているのか分からなくなります。

当の本人がこのていたらくなので、聞き手の人からするとたまったものではないと思われます。

そんなぼくにアドバイスをするように、村上春樹さんが村上春樹雑文集という本の中で彼の大好きなカキフライを例に出し、このように語っていました。


”カキフライについて書くことで、そこにはカキフライとのあいだの相関関係や距離感が自動的に表現されることになります。それはすなはち、突きつめていきながらあなた自身について書くことでもあります。”

つまり自分の好きなもの、のめり込んでいるものについて語ることが、遠まわしに自分を表し、自己とは何かという問いにある種の答えをもたらしてくれるということです。

なので今回はオムレツについて書きます。

とりあえず、ぼくがオムレツが好きなので、そうしただけです。

オムレツというものを通して、うまくいけば僕自身を語りたいと思うのです。

デカルトさんやパスカルさんがそれについてどう考えるかは全くわかりませんが、僕にとっては『オムレツについて語る。故に我あり。」ということになります。


オムレツの話

ぼくはオムレツがすきだ。オムレツ、オムライス、オムそば、オムハヤシ。オムと名につくものは全部すきだ。

店で食べるのも、家で作って食べるのも、優劣をつけることはできないし、したってしょうがない。

でも今回は大好きな店で食べるオムハヤシについて話してみる。

市役所のそばに自転車を停め、商店街へ歩みを進める。

大通りを渡るので信号は大体赤。

スマホをいじって待つのもいいが、今日はオムの日嬉しい日。

スマホをポケットにしまい、向こう岸の人々を眺める。

イライラしながら待っているサラリーマン、青に変わった瞬間に渡り始めても、次の赤までに渡りきれそうにないおばあさん、ほぼ爪先立ちのような高いヒールのおねえさん。歩きにくそう。

今日は平日。人々がせわしない時間を過ごす中。僕だけがおだやかで特別な時間を生きる。

優越感でくらくらする。

信号が変わり、いつもより少し広い歩幅で通りを渡る。

商店街へ入ると、古本たちが〇〇全集、〇〇図鑑など魅力的なタイトルもって甘やかな誘いを仕掛けてくる中、僕は鋼鉄のような、かたく強い意思を持って、でも確実に視線を奪われながら、かろうじて歩みを進めることに成功する。

ここで歩みを止めてしまうと、大体において本をディグることに夢中になってしまい、14時までのランチタイムを確実に逃す。

目的の店になんとかたどり着くと、ガラスに映った自身の身なりを確認する。

よれたTシャツで、思い切りオムにかぶりつくのもなかなか爽快だが、やっぱりぼくはぴしっとして、敬意と愛を持ってオムを食べたいのだ。

 今日は朝からアイロン台を押入れの奥底から引っ張り出し、慣れない手つきでシワを伸ばしたシャツを羽織り、足元にはピカピカに磨きあげた、コツコツときもちのいい音がするお気に入りのブーツ。

明らかな一張羅。

少しやりすぎたなと思い、恥ずかしくなる。

期待外れに軽くスムーズなガラス戸を押しのけ、店内へ、やっとだ。ここからが本番です。

店内はいつものように満席なので、用意された椅子に座って待つ。

その椅子は、椅子を椅子たらしめる安定という要素がおおいに欠けた、シルエットのみでしかそうと判断できないイス。

真後ろのドイツ製のコーヒー焙煎機がしゅっしゅっとゴキゲンな音をたてながら、香ばしく素敵なかおりをただよわせ、エレクトした気分を落ち着かせてくれる。

順番が来るまでの間、店員さんがメニューの説明をしてくれる。お店としてはA・Bランチセットを推しているようだが、迷うことなくメニューの隅っこに鎮座するオムハヤシをオーダー。

時々、オムの王たるオムハヤシをこんなに小さく、下へ追いやってしまうA・Bセットとはどれほどのツワモノなのかという好奇心から、「今日はセットランチの日だ」と意気込んんで店へ入るのだが、僕の耳たぶほどの硬さを誇る意志は惜しくもオムハヤシの五文字の前にひれ伏すことになる。

浮気はできない。

僕は、少なくとも食に関しては一途(?)なタイプだ。だいたい同じようなものを日々食べている。

この話はまた今度。

そうこうしている間に席が空き、二階へと通される。町家のような急な階段を登り、存在理由がいまいち掴めないくせにやたらと重厚な扉を開け、ブーツを気持ち大げさに鳴らして席へと向かう。

席へつくと、テーブルにはすでにフォークと横が欠けたスプーンのようなもの(フィッシュスプーンというらしい)が置かれている。

初めてこの店に来た時、フィッシュスプーンの存在を知らず、欠けたスプーンを出すなんてとんでもない店だなと思った。無知とは恐ろしいものだ。

店内の重厚な装飾は高尚な雰囲気をただよわせ、その雰囲気は僕の心を所在無くさせる。


することがないので店内を見回していると、よそ行きの服を身にまとった家族と、見るからに仕立ての良さそうなスーツ姿のナイスミドルが視界に入る。

家族はランチセットを楽しそうに頬張っている。きちっとした格好の家族が、きちっとした作法で、きちっとしたセットランチを食べている。模範解答のような光景だ。きっと何かのお祝いだろう。

窓際のナイスミドルは五十代前半くらいだろうか、座っていても分かるガタイの良さと、程よい枯れ具合が不思議な色気を醸し出している。彼は収まり良く撫で付けられたロマンスグレーの髪を輝かせながら、オムハヤシを頬張っていた。

なんてかっこいいのだろう。

僕は、彼のようなイケオジになろうと決心した。明日の朝にはすっかり忘れているだろうけど。


しばらくすると目の前にオムが運ばれてくる。結婚式で新婦が彼女の父に手をとられ、入場してくる様子を眺める新郎のような気分だ。

新郎になったことはないが、多分こんな感じだろう。肝心なのはイメージだ。


こんもりと立派にそびえ立つ黄金の丘。

橙色の川はゆっくりと、確実に流れ落ち、群青色で縁取られた純白に輝く大地を満たす。

まずは人並みにご挨拶。じっくりと眺める。

しかし挨拶が終われば、さっそく別れがはじまる。ハローグッドバイ。

花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ。

はやるきもちをおさえて、ゆっくりと右サイドから切り込んでゆく。

黄金のマントを剥がすと、中から朱色の粒真珠たちが顔を出す。

チキンや玉ねぎとともに、ちろちろと輝きを放つ。

このチキンの大きさがちょうどいい。これを一口大とするならば、僕が普段の料理で用いるサイズは三口大や四口大となってしまう。

自分の口で一口大という大きさを定義してしまう、己の想像力に欠け、醤油皿よりも浅い発想を恥じる。


橙色の湖に黄金のかけらをくぐらせ、眼前に掲げる。このように自分の定めた順番を守ることが、きわめて個人的な敬意の発露となる。

そうしてようやく、やっとの事でオムを迎え入れる。

生まれて初めてオムハヤシ(と言っても去年の九月。)の一発目の衝撃は凄まじいものだった。

オムライス×ハヤシライス

外れるワケが無いド正解コンボの前に、もはや選択の余地など無かったのだ。

ファーストコンタクトで完全に心を奪われ、胃袋をつかまれてしまった。



はじめての経験から時が過ぎ、何度もオムを食べ、幾重にも経験を重ねた僕の舌は、オムの味に安心感を見いだす。まるで初期の理不尽な発熱を超えた恋愛のような安心感だ。

皿。口。皿。口。皿。…

規則性の中に自身を溶け込ませ、ゆっくりと、しかし着実に黄金の丘を切り崩していく。

いつまでもこの時間を楽しんでいたいと思うところだが、いずれ終わりはやってくる。

オムが去った後の皿をながめ、完食を悟り、同時に腹と心が満たされたことを確認する。

もう少し余韻に浸っていたいところだが、入り口でまだ見ぬオムを心待ちにし、腹を空かせた同志たちのためにも席を立つことにする。

慣れない座席での会計をなんとか済ませ、ガラス戸を押しのけ通りに出る。

僕はほくほくしながら足取り軽く家路につこうとする。

しかし、ああ、学校!

あまりにほくほくとしていたので四限の授業の存在をすっかりと忘れてしまっていた。

時刻は十四時十分。

急いで自転車を漕げば間に合うかもしれないというギリギリの瀬戸際だ。少し遅れても、申し訳なさそうな表情を作って腰を低くしながら入れば問題ないだろう。

しかしそうすればこのほくほくとした思いは損なわれてしまう。

素敵な気分を失う苦しみと、「行くべきか、退くべきか」という二者択一を迫られたとき、退くべきだ、と思った。

戦略的撤退。

結局その日は缶コーヒーを片手に川辺で座り、今日のオムハヤシを想うことにした。

今日の僕は特別に幸福な気分だったので、不思議と等間隔に並ぶカップルたちの調和を乱さないように、隣の人とのだいたいの距離を測ってから座った。

日がとっぷりと暮れ、川辺の店にあかりがつきだした頃、うとうとしてきた僕は立ち上がり、帰路に着いた。

今度は誰かを誘っていってみたいなあと思いながらペダルを回す。

空にはぴかぴかと輝く、いかにも新鮮そうな黄身が昇っていた。



最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた次回。






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