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匿名の非難に振り回される日本社会とそこからの脱却(私論)

匿名の「大衆の意見」や「関係者」、「専門家」といった言葉に振り回され、一喜一憂する。
国民が一喜一憂すればするほど、もっと視聴率が稼げる(=広告がついてお金が稼げる)から同じ話題を、課題の深掘りもせず、何度も取り上げる。一通り盛り上がりが収束すると、何もなかったかのように次の話題を探しにいく。

本人確認されていない、本人が特定できない悪意の塊のようなSNSの投稿に振り回され、一喜一憂する。
過激なことを言えば言うほど人の注目が上がり、承認欲求を満たし、数の論理で人気が集まればお金までもらえる(=広告がついてお金が稼げる)ようになるからもっと投稿する。忘れられそうになると、違った角度で次の話題を投稿してもう一度注目を集めようとする。

非難する側とされる側の非対称性

何かを非難するだけでその問題がどうしたら解決するかを提示しない不毛な議論。

感情だけを煽ってその非難の対象に対しては思いやりもない一方的な非難。

結果として非難の対象となる人の人生を歪めたとしても、人の精神を壊したとしても、そのことに対して匿名性をまとったメディア、SNSの投稿者は責任を取らない。メディアとSNSは相互参照することで、その影響力を高める。

非難される側は個人情報を丸裸にされ、徹底的に調べ上げられるのに対して、非難する側は匿名性を担保したまま安全なとこから自分の感情の吐口として人の人生をなじる。

社会学のメディア論ではいくらでも取り上げられてきたであろうこうした状況がいつまでも変わらないのはなぜだろうか。メディアやSNSのネガティブな機能が資本主義とつながることで助長され、一度火がつくと止まることを知らない。そうして何を批判していたのかも忘れてしまう。

匿名による非難が社会の変革スピードを遅くする

メディアやSNSで非難されることのリスクが高すぎるから個人がどんどん行動しづらくなる。行動するとしても他者にどう見られるかで行動し始め、本当はどうあるべきかを考えなくなる。

資本主義によって増幅された匿名性の非難によって社会の改善が遅れていく。

一度メディア等で非難されると次のチャレンジを行う権利すら奪われるため、新しいことに取り組むことのリスクが高くなり、皆過度にそれを心配するようになる。

結果、新しいことにはチャレンジしづらい、匿名の非難に監視された社会ができる。

こうした状況を変革するに当たってどんな対抗手段がとりうるだろうか。

非難する人は自分の身元を明かすことを原則とする

例えば、ネガティブな内容を含む報道やSNSの投稿を行う場合には、必ずそれを述べる責任者の身元が明らかにするようにしたらどうだろうか。
こうすることで非難している側も非難される立場になりうるという状況が生み出され、一定の抑止が働くかもしれない。

他の視点からの意見や、解決方法について同時に表示する

非難の声に対して他の側面からの見方や、課題に対する解決方法に関する意見が述べられる環境が整備されていれば、匿名性による一方的な非難の影響は緩和できるだろうか。

実際にSNSではそうした他の視点からのコメントが同じ事象に対する見方の多様性をもたらし、建設的な収束を見せることもある。

1次情報へのアクセスを特定の者に独占させない

マスメディアの場合、同じ情報ソースを元に報道し、その結果として同じようなメッセージがまさにマスとなってそれがあたかも唯一の解釈かのように伝わってしまう。

特に政府に関する情報は記者クラブという仕組みで一部の報道機関が一次情報にアクセスできる仕組みになっている。これを辞めてマスメディアも他のメディア、ひいては個人も同じタイミングで同じ情報にアクセスできるようにしてはどうか。

企業などでもオウンドメディアが増えているのは自社の情報に関するオーナーシップを取り戻し、メディアに一方的に印象付けられるのを避けるためだろう。

匿名の非難を時代遅れにする

そもそも匿名の下で繰り返される空虚な非難が、何ら建設的な価値をもたらしていないことは多くの賢明な市民は気がついている。でも誰もそれに対して異を唱えていないことがその状況を放置している。

自分に関係ないと思っているかもしれないが、自分の行動の多くが、実はこの匿名非難によって知らない間に制約されていないだろうか。
自分が何かを世の中に対して主張できないのはこうした匿名の非難への不安が頭をよぎるからではないか。

匿名で誰かを非難し、本質的な課題解決方法などについて考察しないメディアやSNSに対して、そろそろダサいからやめた方がいいと引導を渡すのは我々国民の仕事かもしれない。

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