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ラグジュアリーファッションにおけるブランドとは何か

House of Gucciという映画を半年前くらいに見た。グッチ家における内紛とその結果としてブランドが創業家の手から完全に離れていく顛末を描いた映画だ。衣装にはグッチが全面協力し、レディーガガをはじめ有名なハリウッドスターが登場するエンターテイメントだ。

グッチが創業100周年ということもあり、ブランドのマーケティングも兼ねた映画なのだろうが、これが本当にブランドの価値を高めるものなのかは疑問だ。なぜなら、この映画はグッチが既に創業以来の歴史なんてとっくに失っていることを示すものだからだ。

グッチを買う人は今何にお金を払っているのか、ということを問う映画にさえ思える。もちろんラグジュアリーブランドの品質は一般のものよりは優れているかもしれない。しかし伝統というものが記号化され、価値あるものとして見られた結果としてのブランドならば、それは形骸化していることをこの映画は暴露しているのではないか。

今や多くのラグジュアリーブランドはLVMHやKeringといったコングロマリットによる資本主義のツールでしかない。ブランドの価値を維持する手段はどんどんと変わっていく。伝統から、著名デザイナー、コラボレーションなど売れるための手法を探し続けているように思える。

劇中でもトムフォードがスターデザイナーになる瞬間が描かれているが、ブランドとはただの記号で、そのデザイナーが価値を付加している。そしてデザイナーとブランドの関連性はそれほど求められない。むしろ伝統と距離が遠いデザイナーを採用するほど、その価値は高く評価されるといった具合だ。
先日亡くなったヴァージルアブローはルイヴィトンにとってそういう存在だった。マーケットに合ったデザインを提供できるデザイナーこそが今やブランドなのだ。ストリートファッションを取り入れたラグジュアリーブランドはマーケットで支持されるデザイナーの趣向の帰結である。

さらに、今やデザイナーだけではブランドの革新性が示せなくなった中で、コラボレーションが新しいマーケティング手法となった。
特にSupremeとルイヴィトンのコラボレーションが、この路線を切り開いた。
Gucciはドラえもんやスヌーピーなどのアニメキャラクターや、Newyork Yankeesなどとのコラボレーションなど、大衆に親しみのあるブランドとコラボレーションすることで価格帯は高いが同時にブランドを民主化した。

KeringはGucciのみならず様々なラグジュアリーブランドを保有するが、100周年と合わせてGucciとBalenciagaが相互にコラボレーションする商品を発売した。これは同グループ内のブランドのコラボレーションにより、外部のIPへの支払いが必要ない形で利益を上げることを可能にした。同じようなモデルはLVMHなどでも今後増加するのではないか。

しかしコラボレーションという手法自体もマーケティングのあり方としては今や陳腐化しつつある。次のフィールドはNFTだろうか。

ラグジュアリーブランドにおける「ブランド」とは、ブランドのロゴ以外は全て変えられる。そのブランドの商品がより売れれば。

LVMHやKeringといったコングロマリットはプラットフォームであり、その中で保有するブランド同士が競合しないように訴求するターゲットをずらしながら、売上を最適化するためにイメージをコントロールする。

それぞれのブランドにはもはや記号性以上の価値がないように感じる。それぞれのブランドの意味付けはいくらでも書き換え可能なのだ。

多くのラグジュアリーブランドは創業家の伝統がそこに価値を付与していたはずなのに、その関連性が失われ、コングロマリットによってただキャッシュを稼ぐための記号として操られる存在になってしまった。

本来ブランドが持っていた社会に対する価値提供と切り離された状況の中でラグジュアリーブランドが虚構のように感じるのは自分だけだろうか。

現在のラグジュアリーブランドはメディアのようなものだ。価値の抽象化が進んでいる。

通常価格の製品との差別化要因は品質→デザイン→コラボによる意味の付加という形でその重心が移動して来ている。
これはSNSの普及によりファッション自体がその中でわかりやすい意味を求められていることとも裏表なのだろう。

ラグジュアリーブランドを購入する人たちは何にお金を払っているのかもう一度意識した方が良いのかもしれない。


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