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あらすじが機能するとティザーではないし、不足していたらただの不親切だから無い方が幸せ

僕は映画や演劇といった作品に於いて、ネタバレですらないあらすじやオススメポイント(現代風には推しポイント)を一ミリも入れたくない。
理由は簡単で「そこからすべてを想像してしまう」からだ。
これは僕の性質というかある意味病気とも言えるのだが。

小難しいサブカルクソ野郎になろうとしていた学生時代に構造主義と出会ってしまい、以来自身の経験及びそれをもとにする思考へ強くこれが影響している。
構造主義について軽く説明すると、「ある物事には成り立つための構造が存在し、その物事が文化や時代が異なり違う物事のように観測されていても、構造が一緒なので根本では同一」(Ex.笑い、愛など)というものだ。
なので、俺は「構造が存在する以上、どんな創作も全て基幹となる型の亜種である」と考えている。
だから、AIが小説や絵画を生成することに驚きも危機感も感じない。人間がやってることだから。

「AI」という言葉が出たから、それをもじりながら冒頭の話を説明すると、「あらすじを知ること」は「俺に対象作の周辺情報を食わせて、対象作について予想する」ということになる。
構造を破る、型破りな作品は存在し得ない("型破り"という型)ので、あれこれ作品対して思案を重ねてしまうと、鑑賞予定の作品の展開(プロットポイントまでも)が自分の中で出来上がってしまうのだ。

そして、その無意識に作ってしまった展開の答え合わせになることが大変悲しいのだ。
答え合わせのとき、大きく外れることはない(あったら、予告やあらすじが嘘をついている)し、合っていたら事前情報以上の価値をその作品に見いだせなくなる。
これが俺があらすじやオススメポイントを見たくない理由である。

さて。
映画は比較的大丈夫なことが多いのだが、演劇ってのが厄介で古典的作品のリバイバルは教養としてあらすじを知ってろ、というのがあるから別にいいのだが、小劇場で主に公演されている新劇は知名度がないから集客を頑張るため少しでも面白そう!観に行きたい!って思わせるために、フライヤーや事前告知にあれこれ色々期待感を込めるように情報を出すことがある。

もーあれが苦手で苦手で。

作品が透けて見えてしまうのだ。

それが商業的には正しい行動だし、俺のような「作品が透ける」なんてことを思うヤツのほうが少数派だから、彼らの行動には何も問題はないんだよ。
だけど、制作が頑張れば頑張るほど俺の期待感は下がってしまう。
なので、対象の公演を見に行くときめたら、可能な限り演目名と公演スケジュール以外の情報は入れないようにしている。

そんな5月中旬から6月中旬までの1ヶ月です。

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