川端康成「伊豆の踊り子」を読んで

・主人公の初々しさがとても良い。 
踊り子が袴を履こうとしてきたり本を読んでいる時ふいに顔を近づけたりした時にドギマギしてしまうのはマインド童貞の私にはとてもよくわかる。近づいてくれること自体は嬉しいのだが、交わる機会があるということは即ち「自分」が相手に測られる機会となるということを我々DTは無意識下に感じている。測られた末、自分の価値が相手にとって低いものとなることが私達は怖くてしょうがないのだ。そのことを情景の羅列だけで形にしてしまうのは流石物書きと言ったところだ。どうすれば恐れないようになるんやろな…。
令和において概してこういう男子は女子からは人気とは言えないが、これが書かれた大正時代はどうだったのだろうか。主人公が第一高等学校出身もしくは学生であるというステータスがこの友好的な関係に良くも悪くも作用しているのは芸人一行の扱いの低さと彼らの恭しい態度から誰にでも感じ取れる。大抵身分という偏見を無くした愛の方が美しく思われるのは私がまだ精神的に幼く理想理想に囚われているからだろうか。愛とは。

・本書の魅力はどこにあるのか
小説の良さに、そのストーリーや演出・構成の素晴らしさが挙げられるが、同時に言語表現という要素も挙げられる。「文学とは言葉の表現が最も大事で、ストーリーや話の展開はあまり重要ではない」と語る物書きもいるほどだ。さて本書の味はどこにあったのだろう。
端的にいうと自分ではわかりませんでした!言葉のチョイスや表現は綺麗だったと思う。特に最後の心情描写は脳みそに言葉が染み込んでくるように心地よい。話の展開もさもリアルでありつつ胸が踊る場面が適度に入ってくるのでちょっと楽しい世界を現実のように味わえた。しかしどちらの方がこの本の魅力であるかと問われたらなんとも言い切れない感覚がある。
自分は不勉強だななんて思ったりもしたが、そもそもサラの時点で本を手に取り、楽しむというのもそれはそれで読書の形ではあるため上の問いに答えが出ないこともなんら悪いことではないと言える。楽しみ方まで自分で決められないようではいけない。近年のネット社会ではご丁寧に作品の魅力まで解説してくれているものもあるが、手軽に情報を手にできる時代だからこそ自分の感覚に頼っていく姿勢というのもある面では持っていた方が良い。

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