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キリコで学ぶ現と虚。

東京都美術館で4月27日〜7月8日まで開催されている「デ・キリコ展」に行ってきました。

ジョルジョ・デ・キリコはギリシャ生まれイタリア育ち、フランスで活躍し、1900年前半に「形而上絵画」と言われるシュルレアリスムの源流となる絵画のパイオニア。ピカソとかとも同年代で絵画のスタイルウォーズと発展が著しかった時代の人です。

シュルレアリスムだったら子供の時にマグリットの「大家族」を模写したことがあります。子供の時は意味と意味の組み合わせの違和感とかデペイズマンの技法とか考え方とか知らないけど、空と鳩。分かりやすくて目を引いた記憶があります。その源流。10代後半の時、確かポーラ美術館でシュルレアリスム特集がやっててキリコを初めて観たと思う。

「シュルレアリスム」はアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言!ってスタイル確定みたいな事してマン・レイとかマックス・エルンストとか集まったりしてるけど、その前。ダリとかマグリットとか、シュルレアリスト達より前にキリコが「形而上絵画」として作品を発表してる。その考えの派生や細分化が自分はシュルレアリスムになったと思ってます。

「形而上」って漢字がずっとイマイチ頭に入らず、「形」を「而」ってどういう事?形が而して(しこうして)って?而してってなんだ、形が逆に?形がそれでも?どういう事って思ってましたが、英語の「Metaphysical」の方が分かりやすいと思ってます。今でこそMeta社もありますし、メタファーとかメタバースとか言いますし、違う世界線の肉体、肉体から離れた肉体、物質はないけど存在は認識できるみたいな。そう思うと、ビデオゲームもSNSも当たり前な100年後を今生きる我々は当たり前に「形而上」に触れてると思いました。

王様や教会のために肖像画や宗教画を描かなくても良くなって、民主主義な時代になって、ヨーロッパ中の絵描きは自由を求めてパリに集まって、カメラも発明されてて、写実画じゃなくて、絵って描けることもっとあるじゃん、一人一人個性出してこうよってノリだったのかなと想像しちゃう。でも戦争が始まりそうな陰鬱な空気もきっと流れてて、開戦したら国籍と年齢で判断されて徴兵されたりして、そこに個性はなかったのかな、っていう2重の世界線が空気的にもあったと思う。

当時はニーチェやフロイトの哲学論が流行ってて(哲学、心理学、脳科学は疎くもっと勉強したいとこです)、実存主義とか無意識、夢や催眠の世界とかを説いてて、絶対王政や信仰への疑念があって、生物は生まれた時から役割あると思ってたけど一人一人に個性あるよ、でもそれと別の所にも欲求や衝動や存在があるかもよ。みたいな考えが芸術家にもリンクして、キリコのスタイルが出来たと思います。

街の絵だけど人がいなかったり、遠近感がチグハグだったり、定規刺さったギリシャ建築の柱がグニャっと曲がってたり、塔はただの積み木か粘土の塊みたいで、神様の為のものには見えなくて、描かれてる物の意味や役割は分かるけど、矛盾、理不尽が起きてて、描き方は個性的でも描かれている中身は非個性的になっていて。

マネキンが向き合ってるヘクトルとアンドロマケもキリコの絵に頻出するテーマで、ギリシャ神話のトロイア戦争で登場するアンドロマケは戦争で夫のヘクトルを失いその後も辛い人生を送る悲運な女性像として、絵画や文学でも良くでてくるアイコン。

ギリシャがルーツのキリコが第一次大戦中にそのテーマをマネキンで描いたのも歴史と生きる時代がリンクして、名もなきヘクトルとアンドロマケの思いをする人がいっぱいいると言いたかったのかなと思ったり。そう思うとキリコの白鳥の絵はボードレールの悪の華のアンドロマケから来てるのかな。やっぱりデカダンスとかダダとかも生まれる退廃的な空気はどうしてもあったんだなと感じる。

絵の説明なのか社会の説明なのか文もチグハグしてきましたが、それだけ社会背景が影響してるんだなと感じて、キリコの絵は一枚一枚を鑑賞するというより、その考え方の発明と、その発明が起きうる時代だった事に刺激を受ける方が強いです。

今回の展示では中世貴族の装いの晩年のキリコの自画像があるんですが、これを観た時になんか可笑しくて、どっか気持ち悪くて、その感覚に既視感があって、何かなと考えてたら「自動生成AI」のセルフポートレートみたいな違和感で、ハリウッド風とか、90年代学生風とか、どうにも当時の通りの空気にはならないみたいな、〜風の「側」の意味だけ纏ってて、本人だけど本当じゃないっていう、これもキリコの理論が現代には日常化してるんだなっていうシンクロを感じて。

今はAIとかメタバースを通じたアートもよく見るから、それがキリコが生きてた時と近い空気があるとしたら少し怖いし不安になったりします。

絵描きって描いた事が体に入るというか、やはりその絵を描くにあたってそれだけ対象に力や思いが入るから、キリコも自分ってなんだろ、今の時代ってなんだろって思いながら描いてたのかなって思います。

キリコが晩年に古典を描いてたのは、描くことで昔の時代背景や気持ちを知ろうとしてたのかなとか思ったり、でもそうしても当時にはなれないっていう、また理不尽を描いてることにもなったり。でもその絵っていう実体がその経緯を全部含んだものとして今も残るってのも矛盾。

今何言ってるか分からなくなってきました、今表か裏か分からない感じですね、でも1人の画家でこれだけブレインストームするのは本当楽しいです。それだけ文化は社会が影響するんだなとも思うし。

頭散らかしながらまた自分の本当を絵にできたらいいな。

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