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私の内側と、家の外側。

葉山にて

4月7日

1人旅は苦手だ。

だが1人で家から2時間かけて葉山まで来ていた
フランシス・ベーコン展が終わってしまうからだ

けど、行った結果
別に大したとなかった。
友人が持っていたドローイングなど
ベーコンが作品と認めなかったものや、資料の展示で
私はベーコンが好きだから楽しめたが
ベーコンが回収した作品はもう作品ではないだろうという気持ちが湧いた。


美術館の脇にある、展望の良いレストランでコーヒーを飲もうとしたが満席で
そのまま、館内の庭を散歩した

先日見たノマドランドのことを思い出しながら
考えながら歩いていた。

今日はその話をしたい。

暖かく、強い日が差していた

そのまま美術館を降りて行くと
海に繋がっていた

砂浜に来る予定ではなかったので
白いスニーカーにトレンチコートだった

スニーカーでなんとか砂浜を歩き
座れそうな場所を探した

すると少し先に若い女性がコンクリート壁にもたれ座っていた

薄着でサングラスをかけた彼女は
靴を脱ぎ小さなシートに座っていた

何をするわけでもなくボーッとしている
この辺に住んでいるのだろう、カッコよく景色に馴染んでるように見えた


彼女の少し先に
芝のようなものがちらちらと見えた、そこには綺麗なハマダイコンの花が咲いている

再びスニーカーが汚れないように
砂を優しく踏みつけながら、彼女の前を横切った

私はちらりと彼女を覗き込んだが、彼女は一切こちらを気にしない

よく見ると
日光を受ける彼女の肌はやけに白く
まるで海で過ごしてきたとは思えなかった

私はトレンチコートとシャツを脱ぎ
砂浜に座った


NOMADLAND

先日、ノマドランドを見てきた

ドキュメンタリーとフィクションの中間くらいにある作品で
広大なアメリカを転々とし、様々な仕事をする。
家を持たない彼女の生き方である。
家に住むことに違和感を覚えるような感覚になれるそんな映画だった。

それと、最近コロモノココロというYouTubeチャンネルをよく見ている。
都内で働いていた女性が少し離れた山の中に家を借りて生活している。
そして彼女もRV車を持ち、その中でも生活している。ハイブリッドである。

ノマドランドで主人公は家を持たない生活をしていて
そんな景色の中で映画の世界に入り込むような感覚になる。
映画というよりは体験に近かった。
そんなものを見ていて

私も最近、日本を回りながらドキュメンタリーを撮影したいという気持ちが芽生えてきた。

コロナ禍で家にいることが増えて
家と向き合った時に、本質的に自分が求めてるものがそこにない気がしてきた。

私自身、どこにいても良いかもしれない

そんな家という場所からの解放
新しい家という概念の構築が必要な気がしている

コミュニケーションとしての家

7月4日

太陽光を浴びて、砂浜に寝転ぶと
知らない間に寝てしまっていた
波打ち際にはカップルが流木に座って海を眺めている。

隣を見るとまだあの女性は全く同じ格好で
座っていた。
さっきは彼女はどこに住んでいるんだろうとか考えていたけど
そんな考え自体軽率な気がしてきた。

家の場所は職場との距離や、学校との距離
で決めるだろう
どちらにも縛られないのであれば、どこに住んでも良い
家族との距離や友人との距離、恋人との距離
もしそれがインターネットで解決するのであれば
どこにだって住める

ただ、家は住むものだけでは無いとは思う。
人が交わる空間としての家

私の母方の実家も、お祭りになるとおばあちゃんを中心に数十人の親族が集まる家として
良いコミュニケーションが発生していたが

宮藤官九郎のドラマでも良くそんなシチュエーションが多く出てくる
例えば、それはカフェだったりスナックだっり
ちゃんと実家だったり(俺の家の話では家の話だったが)
エヴァでいうミサトさんの家も疑似家族だ

親族でなくても、常連さんや、友達や、いろいろな人がコミュニケーションを取る場として出てくる

家でなくても疑似家、疑似家族
のようなものは自然発生するが
それが家である必要もないとも思うし
インターネット上でも良いし
道端でも良いとも思う

住む場所としての家

そこで僕は家に何を求めているのか
そう考えた時に
コミュニケーションの環境としての家はもちろん大切にしているが

家がある場所や、その周りの環境を豊かにしたいと思ってると気づいた

遅いインターネットで言う所の人とのコミュニケーションではなく、モノとのコミュニケーションを求めている気がした

家の周りの
環境や植物、自然であったりとコミュニケーションをとりたいと思った。
今の場所からだとその自然へのアクセスがあまり良くない


最近、三鷹周辺を散歩した、自然がいっぱいあって花が生き生きとしていた
コロナで家にいることが多いこともそうだが、インターネットやスマホで人とコミュニケーションを取ることが増えて
自然の中に自分を置くことや、その中で熟考することが減った
閉塞された都内の家から抜け出して
自然と向き合ったり、自らと向き合うことをしたいと強く思うようになってきたことが要因だと思う。

家の内側よりも
すぐ外側にある環境を大切にしたいと思ったのかもしれない


私の内側、部屋の内側。

私は家の中を私の好きなように着飾っている。
好きな映画、好きな本、好きな音楽、好きな匂い、そんなものが溢れる。
いわば、家の中側は、自分の内側である。

だが残念ながらそれ以上のものはない。
インターネットや外側から吸収し的なものが自分の体内に取り込まれ、消化され
自分の肉体になり、部屋の一部となる。
そんな感覚である。

もちろん自分の脳内に素手で擦れることができて、心地良い環境であることは間違いないが

自分を構成している物がインスタグラムやSNSに基づいているのであれば
それは自分の部屋ではなく、誰かの部屋かもしれない

部屋の中をSNSにアップして満足しているのであれば、その部屋は部屋ではなくショールームなのかもしれない
他者との境界線があやふやな今。
自分の部屋さえもそんな感覚に蝕まれてきている

つまり、私は今一度家の外側を経験して
家の内側を再構築したいと思った。


家の外側

いま、家の外側には商店街がある。
人が多く住んでいる。
都内から少し離れていたとしても、東京は東京である。

それはまるでインターネットの中にザブンと使っているような感覚で
人類量産型計画(みんな同じカルチャーを摂取するSNSの弊害)の片鱗を担っている気分がする

そんな中から、抜け出してもっと偶発的な世界に行きたいと思った

だから、ノマドランドのファーンに憧れて
コロモノココロのコロモちゃんに憧れ
砂浜に座っていた女性に対してかっこいいと思ったのだろう。


砂浜

16時半になろうとしていた

ここから家まで2時間かかるので、そろそろ行かなければならない

海の音、海の匂い、鳥の声、太陽光、高く飛ぶ鳥、幸福な景色。

浜辺を抜けて
再び、小道を通り抜けて大通りへと戻った。


コートの上に寝ていたので、砂まみれになり、白いスニーカーも汚れ、帰りのバスを待った

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