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写真展を終えて



富士フォトギャラリー銀座での展示,無事終了しました!

来てくださった方ありがとうございました.

この展示は,2022年の春,杏花さんと群馬でのフィールドワークを行った後に,二人展にお誘いいただき,実現しました.僕一人では辿り付かない展示場です.お誘いいただいた杏花さんにはとても感謝しています.

カモシカ探した時の投稿https://x.com/hiroki_flam/status/1500236648646590464?s=46

前回の個展(北村写真機店で2023年5月に行いました.)では,作品数が多すぎたことと,空間をあまりうまく使えていなかった気がした点が反省だったのですが,今回は作品数も自分の中ではかなり絞り,その反省は活かせたのではないかと考えています.

作品は販売しておりますので,ぜひお問い合わせください.

杏花さんの作品

長くなりましたが,写真展を終えての自分の作品に対する正直な今の想いを書きました.

お読みいただければと思います.



既存の価値観が壊されるような経験や,言葉だけでは知っていても,目の当たりにしたことがなかったものに直面した時.自分の中に無意識内に作られている“認識の境界”の様なものが突破される時に,人は衝撃を受けるのだと思います.詳述は控えますが,大学生に入ってからは,フィールドワークでは現地の方々とのお話,大学では法医学の解剖や病棟実習がそれに最も該当する経験です.


そして,こういったものこそが,感動体験や芸術体験であると思うのです.そういったものを,追体験してもらいたい.その時僕が見たものを提示してみて,見る側に何かを感じてもらいたい,写真を見る方とお話しするうちに,そんな気分になるのです.


しかし,今僕が写真の展示を通してできているのは,フィールドワークの結果得られた出会いと光景を記録し,その美しさを写真で伝えること,にとどまってしまっていると思うのです.言ってしまえば,活動報告にすぎない.自分と動物たちしかいない早朝の森や,霧の深い林で,その場所に美しさを感じることは多々あります.しかし,芸術体験や感動体験というのは,何かを綺麗に感じることだけではない,むしろ,先述のように他の部分からの方が多いと思うのです.それは嫌悪でもいい,コンプレックスでもなんでもいい.もっと,陰に近いところにもある.自然の中から,見栄えの良いデザインを切り取る業には,もちろん需要があると思います.しかしそれでは,まさに自分がやっていきたいもの,と言い切るには,どこか物足りない.メッセージ性を持ってやっていても,受け取られ方は極めてシンプルだと思うのです.


ではどうしたら良いのか.


まずは僕が今やっていることを続けてみることでしょう.フィールドと長く関わっていると,あたかもある程度やり切っているように思ってしまうけれど,写真を力を入れて関東エリアを撮り出したのはここ3年です.まだまだです.それで出てくるものに自分でケチをつけていても,それはまだやり切っていないだけだと言うことになる.

しかし,フィールドワークを極めて,例えばその場所にいる個体個体を把握して追い続けたり,その場所の植生を調査してあらゆる生物種の記録を行えば,何か見えてくるのかといえばそうでもない気がします.もちろん様々な動物のカットは増えるでしょう.野生生物を追った結果としては,完成度も高くなるはずです.そして生き物探しが大好きな僕は,これをやめることはないでしょう.しかし,ここの極め具合が先述の解消につながるかと言うとそうではない.もちろんこれはこれで良いものだと思うし,続けるのだけど,これだけではない.

おそらく僕が自分のフィールドワークの結果として出てくる写真に感じている違和感は,一つは,当事者性の無さからくるものなのだと思います.どれだけ追い続けても,自然への関わり方が「野生生物を探すフィールドワーク」では,結局自然に対して,<観察者―被観察者>の関係にしかなれない.<観察者>でしかない僕が残したものが,活動報告になってしまうのは,ある意味必然です.動物と環境を共にする方は,<ヒトー他腫>という容赦のない関わりをしている.


先述した“認識の境界のようなものを突破”することを表現したいのであれば,自分がその場の当事者になる必要があると思うんです.自然との関わりでは,農業や漁師,狩猟をしている立場の人がより当事者性があるでしょう.より自分の身を生き物たちのような暮らしに近づけるには,もっと人里離れた地域での継続的な生活がそれに該当します.より当事者性のある自然との関わりは,様々にあるのです.これは医療者としても同様で,今はただの医学生で高々病棟での医療従事者や患者さんに接しているだけですが,研修医,レジデントを経て,医師になってゆく中で,医行為についてより当事者性が増していくでしょう.

もう一つは,感動体験を得る場が,野生生物と向き合う場所だけに限られなくなってきていることが原因なのだと思います.そして興味関心の対象がヒトへも移ってきているのです.結果として,生成される写真と生成される感情にズレが生じている.しかし,写真や文章の量がこの思考についていけてないということは,そういった価値観を身に付けてから,まだ日が浅すぎるのです.関東の野鳥たちの様に,小学生の頃から関わり,途中からシャッターを切っていれば,心の中に収まっていられず,溢れ出る感情と写真が共鳴できる.しかし,僕が今表現に落とし込みたいと考えている何かは,その実体も僕が掴みきれないまま何もできないでいるような気がします.けれど,感動体験が形になり自分の中に落とし込まれていく様は,きっとその対象が何であってもそう変わらないはずです.生き物を探す純粋な探索業に対する質感を,きっと他の体験にも持てるようになるのではないか,そう思っているのです.


「それは動物写真とは別物じゃないのか」と,そんなふうに思われるかもしれないのですが,対動物のフィールドワークで感じること無しでは,得られない視座が僕の中にはある気がするんです.フィールドから帰ってきて都会に来るからこそ感じることがある.野生生物をみてヒトをみるからこそ感じることがある.両者は確実にリンクしていて,そして,両者ともに「自然」に対して感じることに他ならない.うまく伝わらないかもしれないけど,僕の中では極めて地続きな場所にあるんです.だから,同じ表現としてまとめたいんです.


恐ろしい速度で体験と表現を続ける方々は,こういった経験の中にある根幹みたいなものを解っているのではないかと思います.僕が未熟だというのは,この根幹みたいなものを,対野生生物に対するフィールドワークでしか体験できていないということです.


これから色々な体験をするでしょう.今様々なことに感じているものやエネルギーも,もっともっと大きくなっていくでしょう.そうした時,良いアウトプットができると思うんです.



‥と,言いつつも,やはり野生動物は大好きです.いろいろな進路につながるはじめの一歩をくれたのも彼らだし.僕が本音でいられて,本音で表現できる唯一の対象なような気がします.自分が生きている限り彼らの生きる地でのフィールドワークは続きます.今日もコミミズクを探していました.飽きてきたような気もするけど,でも会いたいと思ってフラッと外に出てしまう.きっと写真に収めるし,日記を書く手も止まらない.


学生生活はあと2年,その後研修医のキャリアが2年あります.遠征にも行くと思いますが,この4年はひとまず関東と長野をメインに撮り続けようと考えています.それでも「撮りきった」というには短い期間になると思いますが,まずは自然を撮る人間として,この4年間できることは続けます.


では,また.


2023.01.28

佐藤 宏樹

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