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短編『ロボットのおもちゃ』

私は子供の腕に抱かれ、冷たくかたい皮と温かくやわらかい皮が触れ合うのを感じた。
私は動けない体なのに、この子は活発に動いて私を抱えて連れ回す。
返事ができないことを知っているはずなのに、その幼い瞳で私を見つめ語りかける。
この子は本当に楽しそうだったが、それが何故だか私には到底理解できなかった。

さて、何から話そうか。
私は子供用に作られたロボットだ。
話せないし、動けない。何も出来ない観賞用の玩具だ。
私は工場で生まれた。そして店で売られ、この家にやって来た。
そしてこの家にもう五十年以上いる。

この子の祖父が(もう死んでしまったが)五十年前に私を玩具売り場で買った。
それがなぜわかるかと言うと、直接この子の父親がそう話すのを聞いたからだ。
私はこの家庭のことを大抵なんでも知っている。
しかし、それは最近のことに限定される。私の自我が芽生え目が見えるようになり、耳が聞こえるようになったのは、ほんの二年前からのことだった。

二年前は丁度、この子の祖父が死んだ年だ。
泣いて別れを惜しんでいたこの子に、「おじいちゃんの宝物」として与えられたのが私だ。
この子の所有物になった瞬間から、元からあったように私に自我が芽生え、だんだん子供の声が聞こえ顔がハッキリと見えるようになった。
そして、自分でも気付かない内にそのことを喜んでいた。
自我が芽生えることや目が見えることだけで、私は作られ、この家に来た価値があるとさえ思った。

その喜びは、どうやって生まれたのだろう。
私は感情というものを理解できるが、自身が持っているそれは単調で弱く、色の付かないモノクロの感情だった。
喜怒哀楽をその時に感じることはなく、月日が過ぎてゆくに従ってようやくその輪郭を表すような感情なのだ。
私が今こうやって感じている感触はそれが事実であるということが実感できても、それによってすぐ感情が巻き起こることはまずない。
これがロボットの悲しい定めで、人間と話すことなどそれはもう無理難題なのであった。

私は生あるものであるのか、それともただの鉄の塊なのか。
それはわからない。
しかし人間や動物や植物、太陽や地球などの星々まで、全てを尊ぶべきものであると感じることが出来た。
私はあの時、私の自我を覚ました幼い子供にさえそれを感じる。
むしろ、その光が多く放たれているのはこの子なのかも知れない。

この子の部屋に置かれているほかの玩具たちは、例えモノクロであったとしても感情を抱くことがあるのだろうか?
私は喋ることはもちろん、動くことも当然出来ない。その玩具たちを内面まで知ることなど、到底叶わない。
この子の一人遊びの台詞のような語りかけや、本当の独り言などを聞くことしか出来ず、私に対しての愛情を粒の大きさほどに感じることしか出来なかったのだ。
この子の腕に抱かれて家族のそれぞれの会話が聞けるとしても、私にとっては事実なだけで大抵のことはどうでも良かった。
私は自分の姿形を鏡を通して見たり、この子の落書きで見たりする。鏡の中の自分の姿はあまりしっくりせず、そこまで興味もそそられなかった。しかしこの子の落書きの私は、幼い発想の中でたくましさや強さを身にまとっていて面白く感じた。
そう感じたのは数日を経た後だったが、この子の落書きはいつまでも輝いて見えた。

この子は、いつまで私と遊んでくれるのだろうか?…そういった疑問は不思議となかった。
この子が遊んでくれなくなっても、私はこの家でこの子の成長を眺めていられる。
それだけで十分だ。

そうした感情が生まれて、幾日か経った。私は人間というものを、少し理解した。
そんな気がしただけかもしれないが、この子は私を見るたびに祖父を思い出しているのだ。
しかし、死んでしまったらもうそこには現れない。その悲しみを、多くの人間は背負って生きているのだ。
この子も、その背負った人間の一人だ。
部屋に居るとき時折見せる悲しげな横顔を、私は何回見たことだろうか。

すると幾日の後、私はまた自分の中に新しい感情が生まれるのを感じた。
それは、この子への切ない感情。言い表せないのだが、とても重要な感情だった。
私がこの子のために何か出来ないだろうか…この子が望む小さな小さな物事を、私がしてあげることは出来ないだろうか。
そんなことを、毎日毎日考えあぐねていた。
私は焦燥に近い感情が生まれるのを、自身の中に感じた。
私はロボットだ。
私は玩具だ。
それが悔しくて悔しくて、たまらなかった。

いつだってこの子は、祖父を心の片隅で思い続けている。
忘れることは無いのだ。
私は忘れる日が来るのだろうか?
この子を、この子の両親を、この子の家を。
もしそんな日が来るのだとしたら、それは私の感情が消えてしまう時だろう。
今現在、感情や感覚があったとしても、いつ二年前の状態に戻るかもわからない。
そんなことを考えていると、私は幾日後に恐怖を覚えていた。
私という存在が消えてしまう恐怖。
人間で言えば死というものの恐怖を、この無機質な体の内に感じたのだ。
それから数ヶ月が経ち、私が感情を持ってから三年の月日が経った。
この子も誕生日を迎え、今年で六歳になった。いつまでも同じロボットで遊んでいるわけがない。この子は携帯ゲーム機を買って貰い、それを楽しんでいるようだった。

私は不思議と、それでも構わない。むしろ良いことだ。
そう考えていた。
私から離れる時間は、別にこの子にとっては何でもない時間なのだ。
逆に言えば私と遊ぶ時間は、数多くあるこの子の時間の中の一端にすぎない。

しかし、私からしたらこの子との時間は、かけがえのない大切なものだ。
小学生になり、下校後にランドセルの中身を片付けている。夕飯の後、風呂上がりの温かい体でボンヤリとパジャマ姿で椅子に座っている。そんなこの子の、ふとした何気ない瞬間が、時間が経つにつれてとても愛おしくなってきた。

そしてこの子はすくすくと成長した。背も伸び声も変わり、顔も大人っぽくなった。
それと同時に、私を眺めることも少なくなった。

この子は強くなった。
逞しくなった。
そして祖父の死というものを受け入れ、それを次第に記憶の奥に、心の底に仕舞い込んでいった。

するとどうだろう。
私の目に映る景色が、日に日にぼやけていくのだ。
どういうことなのだろう。
音が、声が、耳に届きにくくなって、感情すらあやふやになるのだ。
私は何故、こんな感情や感覚を授かったのだろう?
何故この子のそばで、この子の成長を眺めていられたのだろう?

だんだん暗くなってゆく。
だんだん聞こえなくなってくる。
心が、それを惜しんでいる。

ふと私は考えついた。
それを結論として、自分に刻み込もうと決めた。
私はこの子の祖父の意思によって、届けられた使者なのではないか?
この子のことを案じた祖父が、最後に願いを込めたのではないのだろうか?
私はずっとこの子のそばで、この子の成長を見てきた。
それこそが、老人の願いだったのではないか?

そうだ。
そうだったのだ。
自分の問いに、自分で答えていた。

消えてゆく光景の中、消えてゆく感情の中、私は温かい感情に包まれた。
あの子が久しぶりに、私を手に取り優しげに眺めているのだ。
もうその顔は青年となり、心配するような子供のままではなかったのだ。

ありがとう。
私は完全に感情や感覚が消えてしまいそうになる中で、誰かにそう言われた気がした。

気のせいかも知れない。
きっと、気のせいだろう。

私は眠りにつくように、だんだん無くなる自分自信を安らかな気持ちで感じていた。
今この子は私を眺めている。

冷たくかたい皮と温かくやわらかい皮が触れ合うのを感じた。

そして目の前が、真っ暗になっていった…

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