「手法やプロセスに縛られるな」という言葉の意味 或いはイチローとしてのあり方
先日、ミミクリデザインが運営するWorkshop Design Academia(WDA)でもお世話になっている、片桐さんと意味のデザインに関する研究活動の進め方(などなど)についての秘密会議が、本郷三丁目駅の上島珈琲店2Fにて行われました…
上記のツイートはそんな会話の中で出た話です。
大学でもミミクリでも、方法論について、研究活動や実践での取り組みを重ねてきましたが、ある種の「やり方」を流れとして整理したプロセスやメソッドは、今日多くのものがありふれている状況にあります。デザイン思考だけでも多くのことが日々語られ、デザインとは何か以上に、デザイン思考とは何かを語るのも非常に大変な状況ではないでしょうか?
現にデザイン思考がもっとも広がることに貢献したといっても良い、デザイン思考の5つのステップモデルは、その普及に貢献したスタンフォード大学 d.schoolでさえ、既に新たなモデルへと展開をしています。
(プロセスとして語るのはやめようと言っていますし、もやは8つの能力と言っているので、手法でもないんですが、、)
今回の「上島会談」での話はデザイン思考に限らず、私たちはそうした手法やプロセスとどう向き合えば良いか、というものでした。(会談ってつけるとかっこいい)
どんなに便利なツールがあっても、それを使いこなせなくては意味がない。
このことは多くの人が共感してくれるのではないでしょうか?現実の世界に置き換えてもわかりやすいもので、どんなに切れる包丁があっても、料理のことを知らなければ使いこなせず、どんなにスペックのいいパソコンがあっても、それで成し遂げたい仕事がなければ意味がありません。
手法やプロセスも同じ。知っているだけでは何の意味もなく、使い手自身の状態が重要なのは明白です。
にも関わらず、誰でも手軽に簡単にできる(その上手に入れやすい!)とアピールするものばかり。僕はこんな状況がまるで、100円ショップで使えるものがあれば良い、としか思わない人が増えている状況に思えてしまいました。(決して100円ショップを非難しているわけではありません!よく買い物します!お世話になってます!)
一方で手法にこだわりすぎてしまう人もいます。手法のステップやプロセスの流れを一つ一つ間違いなく実施することにひたすらこだわる。確かに失敗するリスクは減るかもしれません。しかしそれでイノベーションが起きるとも思えません。説明書がないと不安になってしまう人が、どうして新しい家具のアイデアを思いつけるのでしょうか?
こだわるという意味では、愛好家なのかもしれません。でも本当の意味での愛好家と、単に道具だけを愛でている人とは違うはずです。
道具は大切です。人間は道具の進化と共に歩んできたと言っても過言ではありません。だから間違いなく必要です。常に進化していく必要があります。
でも上記で見てきたように、単に道具に依存した人が新たな革新を起こしてきたわけではないとも思えます。
つまり今一番意識すべきはどんな道具の使い手になるか、ではないでしょうか?
あなたにとって理想の道具の使い手とは?
道具を大切にしつつも、常にその道具を磨き続ける。そんな理想像が浮かぶのではないでしょうか?(僕の場合はイチローです、変なタイトルですみません)
手法やプロセスなど様々な道具を使う際に上記を問いかけてみると、必ず使い手である自分自身のあり方に目が向くはずです。どんな野球選手でも、自分の変化に寄り添う新しい道具を探し求めながら、常に道具を大切にしています。
常に新しい道具を追い求めていているだけでは、イチローのようには当然なれません。バットもグローブも、当然自分に馴染むよう、選びメンテナンスを繰り返します。そういう手触り感のようなものが、手法やプロセスにはあるのでしょうか?
「手法やプロセスに縛られるな」とよく言われますが、それは道具を使うなということではないと思います。ちゃんと自ら磨かない限り道具は使いこなせないよね、という話ではないでしょうか?
そんな感じの背景もあって職人の話が出たのでした。多分イチローの引退がショックなんです。
ミミクリデザインではそうした背景もあって、方法だけではなく、その創造性の源泉となる土壌を耕すことをビジョンに据えています。
あなたにとって理想の職人像とはなんでしょうか?
その職人の道具との向き合い方はどうでしょうか?
自分にも改めて自問自答しなければです。机の掃除から始めます。
みなさんからいただいた支援は、本の購入や思考のための場の形成(コーヒー)の用意に生かさせていただき、新しいアウトプットに繋げさせていただきます!