カウンセリングで自分を客観視して心のデトックスをする【コロナ後遺症日記1/19】

おはようございます。ひろみんです。
今年初めてで、久しぶりの1/19のカウンセリングがやっぱりよかったので、自分のために記録しておこうと思い、PCを開けました。

前回が12/15だったので、ほぼ1ヶ月ぶりでした。
本当は、先生からはあまり間をあけたくないから…と前の週に予定されていましたが、Long Covidクリニックのリハビリに出て、クラッシュしてしまい、最近のクラッシュはめまいが強いので、1週間後に変更してもらいました。

私が、病気になった当初の2年前、まだ世の中にコロナ後遺症の研究もそれほどなく、疑われつつも診断がつかなかったために、燃え尽き症候群とか鬱という診断名になっていました。

そのために、少し起き上がれるようになって、話ができるようになった頃に、すぐにファミリードクターにカウンセリングを受けるように勧められました。

なので、今のカウンセラーの先生とはそれからずっとのお付き合いで、ほぼ2年になります。
最初の頃はまだがっつりパンデミックでしたし、私はもっと動けない頃でしたし、今もクリニックまで出かけるのは難しいので、カウンセリングはオンラインで行っています。(日本語です!)

日本にいる時から自身が医療従事者として、精神疾患に限らず、カウンセリングの重要性は知っていました。でも、子育て、介護と3足のわらじをはき、私生活の悩みも、様々な職場の悩みもあり、色々な局面でストレスを受けやすい職業柄、カウンセリングを何度となく先生を変えては試したものの、正直、あまり受けてよかった、役に立つと実感したことはありませんでした。

理由は色々ありますが、私の人生は、かなり昼ドラや韓国ドラマもビックリ‼️の想像を絶するような波瀾万丈な状況におかれていたことが多く…
それを限られた1時間なりのカウンセリングの時間で、私が先生に話して、理解してもらおうとすると、限られた時間の中では、私の悩みを解決するヒントの話にまでは至らず、診療時間の終わりが来てしまい、話の途中で一旦切り上げて、次回まで中断しないといけない。
自分としては思い出したくないくらい、嫌なことを話して、思い出して、少しも解決せずにその途中で止めることになる…
その感覚が嫌で、私自身、いつの間にか、前日に『決められたカウンセリングの診療時間、1時間なら1時間で、解決できそうな問題をまず考えて、相談する』ようになってしまいました。でも、そういう風に限られた時間で解決できそうな問題って、そもそも自分だけでもどうにか解決できるし、そもそも私自身医師として、ある程度カウンセリング手法は勉強しているので、先生がどのように対処するように言ってくるかがある程度想像ついてしまう。
むしろ、終わりの時間が迫ってくると、そろそろ(先生に、まとめさせてあげないといけない!)と先生がまとめられるように、先生を誘導するように自分で発言を調整していたりさえしていました。
そんなこんなで、カウンセリングを受ける=苦行でした笑
そりゃあそうだ、だって、前日の先生に解決してもらう問題を探しだす準備から、まとめさせるまで気を遣いっぱなし.…それで高いお金を払うことになんの意味も見出さない。

でも、今回の先生は、時間関係なく、終了時刻を過ぎても必要であると思ったことは、それは大体は、私が今までなら複雑で簡単には解決しなそうだから、自分でも嫌で向き合わないような、でも大事なトピックをしっかりと、私が疲れない限りは時間をかけて洗い出して、自分の底の底にあった本当の気持ちを引き出したり、自分の中で考えすぎて気が付かずに偏ってしまっている考えを指摘して、一回のカウンセリングの中で、とことん向き合ってくれるので、自分でも思ってもみなかったくらいスッキリして、初めてカウンセリングの良さを感じています。

もう一つ、これは言っていいのか…
日本では、国家資格があるとはいえ、誰でもがカウンセラーと名乗れて、カウンセリングができるので、カウンセラーの力も手法もその個人によります。保険の場合には、短い時間に限られます。
また、共感傾聴がやたらと強調された手法で、結局話したところで、何も解決されない…話したエネルギーと自分のプライバシーの開示損とおもうことも多々でした。
対して、カナダでは、明確に医療カウンセラーと名乗ってる人は、医療カウンセラーの最低専門短大、または大学のコースを卒業して国家資格を持っている人。(もちろん、スピリチュアルカウンセラーとか就職カウンセラーとか、そのような類のものは除きます。)
私がカウンセリングを受けているサイコロジストと名乗る先生方は、博士課程まで卒業して資格を持ってる方で、明確な専門職。私自身が勉強した簡単なカウンセリング手法を超えた経験と知識があること、専門家はやっぱり専門家だなあと、思います。
サイコロジストのカウンセリングは、もちろんそれなりの料金で高額なのですが、それを払ってもとても良かったと思える実感を毎回させてもらっています。

この先生と、周りの方の助けで、コロナ後遺症になってから、
自分を愛すること、自分を信じて行動していいこと、本音で生きること、自分の居心地の良さを追求することはわがままではないこと、ネガティブな感情というものはなくて、どんな感情もしっかり認めて、咀嚼してあげないと自分の中に知らずに溜まって、鬱っぽくなってしまうこと....、他にも
様々なことを学び、練習しました。

お陰で、コロナ後遺症になり、身体は不自由になったけれど、病気になる前より、楽しく、自由に人生を生きれるようになりました。
病気になる前までの、医者をやって、フルタイムバリバリ働いて世の中に役立ち、家事をして、子育てをして、周りから見たらきっとキラキラに見えて、スーパーウーマンと呼ばれていた頃よりも、今の毎日お風呂も入れなくて、病院にも行けず、毎日パジャマで、ご飯もあまり食べられないし、目を開けるのも辛いこともたくさんあって、少し元気でも、ほぼ一日寝たきりで、漫画読んだり、リール見るくらいしかしてない、ニートで引きこもりの生活しかしてないけれど、今の自分の方がずっと大好きで、人生が楽しくて、幸せと断言できるようになりました。

先週の金曜日のカウンセリングで驚いたことは、年末年始どうでしたか?と聞かれて、自分では娘や日本からの大親友の母子がカナダに来てくれて、一緒に年末年始を過ごせて、またその時に以前なら無理して楽しませなきゃとかしたのを、自分のペースで、ペーシングを乱さずに楽しめたという、喜びを話そうと思って、話し始めたら、”本当は、二人が来たら、あんなこともこんなことも一緒にやりたい。お散歩や、あそこにも連れていきたいと思っていたことが出来なかったのは悲しくて、悔しかったけれど.…よかった”といいながら泣いていました。

私は、今まで沢山辛いことがあったから、幸せのポリアンナじゃないけれど、今流行りの、『いまある現実に感謝して”ここが良かった”』いリフレーミングして、ポジティブに考えるのが我ながら得意。
でも、本当は、その”よかった!”の前にある、”…だったけれど” や”…だった。でも”
前の…の部分の自分のネガティブ感情を置き去りにしがち。
〇〇できなかったのは悲しい。悔しいも、大事な大事な感情で、そこも味わった上で”でも”と言わなきゃいけないのを、今回もすっ飛ばして、いきなり
”でも良かった”と自分に言い聞かせていたようです。
今回も先生に話を起こった話をして、その経験を反芻して、自分でも思いがけずに涙が流れて初めて、自分がその悲しかった、悔しかった感情を心のなかにずっと押し込めていたと気が付きました。
それらの感情を吐き出して、思い切り泣いて、
先生から”それは良い年末年始でよかったですね。”と言われたら、心からスッキリし、カウンセリングが終わったらびっくりするくらい身体が軽くなりました。

自分ではだいぶ本音で生きてると思っていたけれど、どうしてもまだなかなかクセが直らないなと思った次第です。

このカウンセリングの先生に、最初の頃言われたのが、こういう自分で認めない感情、無理矢理ねじまげた感情がPCのゴミ箱のように、そこに溜まっていくと、PCが重くなるように、人間も、知らずに身体が重くなったり、鬱になったりするともいわれているんですよと、本当にそうだなあと実感する今日このごろ、今回もカウンセリングをして、起こった事実を客観的に検証して新しい発見もあり、心のデトックスもできて、スッキリしました。




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