『取材・執筆・推敲』を読んで。
この本には、以下のようなことが書いてあります。
ライターは、自分のわかる範囲で書くこと。読みにくい文章を書く人は、書き手自身が分かってない。
つまり、僕が今この本を読んで分かっていることはこれだけだ。
その原体験は、受験に遡る。
僕が受けていた古文の先生は、ひたすら記述に力を入れていた。マーク式試験が多い私立受験専門の人でも記述をさせていた。
多くの私立受験生はマーク式に慣れマーク対策をした方がいいと考えるが、受験のプロは違った。ひたすら書かせて、自分自身の頭の中を整理することに力を入れていた。
そんなわけで私立受験の私も例外なく書いていた。書かなくても正解にすることはできるが、せっかく通うならやってみようということで書いてみた。そして当然のようにダメ出しを喰らう。
「マークができても論述ができなければ意味がない。大は小を勝る、ひたすら続けた君には1年後大きな武器として残るだろう。」
そんな言葉をかけられた。当時は全く理解できなかったが、頭の悪いぼくは続けていくことしかできなかった。
クラスの中では、圧倒的に劣等生だった。どれだけ頑張っても下から数えたほうが早い。しかし、模試になるとどの科目よりも成績が良い。
数学の方が得意意識があったが、なぜか古文の方が成績が良い。担任に「古文得意なの?」と聞かれ、「数学の方が得意で古文はむしろ苦手科目!」と答えた。担任は全く信用してくれなかった。
なぜこんな成績なのかよく分からないが、「これが記述の力なのか」と思いはじめた。
あるとき、古文の先生からこんなことを言われた。
「論述で書いていることに不満を持っている人もいるだろう。しかし、歴代の卒業生は言っていた"論述で鍛えた求められる答えを整理する力は、マーク式問題で答えが光って見える だから迷うということはない" 君たちにもこの感覚を味わって欲しい。」
聞いた時、少しわかった気がした。古文の方が迷わずに選択する回数が多いと。この感覚を大事にしようと思い、英語、現代文でも書くことに重点を置いてみた。すると、少しではあるが"正解はこれ!"と思って正解する率が上がってきた。
しかし、クラスでは落ちこぼれ。どれだけ良い解答だ!って思ってもダメ出しをたくさん喰らう。毎授業が辛く、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
そして月日が流れ、追い込みシーズン。
この時期になっても、古文のクラスでは落ちこぼれ。しかし模試の成績はどの科目よりも古文の方が良かった。過去問を解いても安定率が違う。
その時のぼくは、自信を持って正解をしていた。むしろ、答えが光って見えるという感覚を得ていた。間違っている箇所がはっきりと分かる、受験生が陥るマーク特有の悩みというのは全くなかった。
そのときに書くということの難しさを知った。同時に理解することの難しさを知った。
本当に理解していないと分かりやすい文章を書くことはできないんだと。
理解したという感覚をアップデートしない限り、自分の文章力は上がらないんだということを突き詰められた。
受験を通して、ぼくは学んだ。受験のときの経験がなければ、この感覚は分からなかっただろう。
そんなことを思い出した、日曜。
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